1935年、八九式戦車の後継車両開発計画が発動。
大馬力・重装甲戦車案(第1案)と小型軽量案(第2案)の二種類の試作戦車が作成され、試験が開始された結果、第1案が採用され、正式に九七式中戦車としての計画が作動し、1937年に完成。
様々な条件や構想から戦車開発には積極的でなかった日本陸軍ではあったが、日中戦争の勃発に伴い、『大陸では戦車は有用である』との見地から、九七式中戦車の大量生産がスタートする。資源に余裕があった頃に作られた為、日本軍戦車としては最多の生産台数:2123台を誇る。
ノモンハン事件を初陣とし、初陣で欠点が露呈した戦車である。 それでも日本軍戦車の主力として各地で使用され、マレー半島攻略戦では圧倒的に格下のイギリス軽戦車を相手に、縦横無尽の働きをする。しかし、同格、格上の戦車の前には、武装も装甲も役に立たず、戦局がある程度進む頃には、各地で撃破されていった。
ノモンハン事件で露呈した欠点を修正して、長砲身47ミリ戦車砲に換装し、追加装甲を施した九七式中戦車改(チハ改 新砲塔チハ)も少数生産されたが、
こちらも、同格、格上の戦車を前にしては、撃破されていった。
チハ車は元々、軽戦車を撃退する為に作られた戦車であるから、やはり軽戦車には強かった。とりあえず、よほど至近距離でもなければ、その薄い、激しく薄い(性能の良い小銃で至近から撃てば穴があく薄さ)装甲でも、37ミリ戦車砲の弾丸は何とか防げた。
しかし、その軽戦車ですら、しまいには50ミリ戦車砲を装備するようになり、 装甲も強化され、戦車砲弾も改良されてくると、
格上のハズの九七中戦車は文字通り『ブリキの棺桶』となる。
同時期に生産された各国軍主力戦車の中では、本当に最低の戦車だった・・・。 だからという訳ではないが、やはり搭乗者にはその弱さに愛着があったのだという。とはいえ戦車兵以外にはすこぶる馬鹿にされた戦車だった。オマケに戦車兵は同情される有様だった・・・。