○はじめに |
海軍の軍制度は陸軍の軍制度とは全く性質が異なる。
これは本来、海の民達の独立不羈の兆しが強かった為であり、
また高度に専門的な技能が要求された為である。
その様な訳で、海軍は現在に至っても特殊な形態を保っている。
その顕著な例が階級制度であり、編成される部隊規模であり、将校の指揮範囲である。
それらを一言で解説するのは難しい。
一言の下に解説出来得たとしても、理解を求めるのはより困難であろうと思われる。
そこでまず、海軍の軍事制度を理解する上で書かす事の出来ない、
彼らの家たる【軍艦】から話を進めようと思う。
1.艦船の登場 |
軍艦の歴史は古い。
紀元の昔から、恐らく、有史に語られる以前から、軍艦と呼ばれる物は存在していた。それらは当初は丸木船の様な物であったし、或いは丸木船(カヌー)を組み合わせて作られた、頑丈な筏(ヨット)であった。これらは当初、【軍艦】とは呼ばれない。
【軍船-ぐんせん-】【兵船-ひょうせん・へいせん-】【戦船-いくさぶね-】という言い方がされる。
【艦】と【船】の差は、船体の大きさや機構の差と共に、それらが内包する人的組織規模の差である。
しかし、このような概念が生まれたのは、主に日本や中国であり、欧州の海洋立国に見受ける事は希である。
この概念差の原因は、個々の国情とそれに伴う海洋の歴史と、海人の歴史に大きく依存する。
東アジア、つまり中国や朝鮮、日本は、対外的戦争を海上で頻繁に起こしてはいない。有史の中で明らかとされている範囲を見ても、白村江の戦いでの海戦(663年 日本・百済VS唐・新羅)、秦や隋の朝鮮半島出兵における海上戦闘、その辺りが海上での大規模な対外戦闘行為である。しかし、それら戦争のいずれもが主戦場は海ではなく、陸地であった。中国国内の分裂抗争、或いは、朝鮮半島内の分裂抗争、日本の分裂抗争を見ても、主戦場の多くが陸地であり、船を用いた戦闘行為は極端に限られる。
従って、一定レベルの兵船建造技術が確立されると、それ以上の発展は行われなかった。
他方、欧州はオリエントの発生以来、その範囲は地中海やカスピ海、黒海を中心に発展していく。国家の興亡は海の覇権と密着した関係であった。従って、地中海、カスピ海、黒海の波の上で、それらの覇権を巡る大規模な抗争が繰り広げられた。
ヴァイキングのガレー船(模型 裏辺所長蔵) |
当然の様に、当初は丸木船の様な簡単な兵船から、巨大な筏に発達し、多数の櫂を取り付けた【ガレー船】に進化するのも早い。逆にガレー船への進化と普及が、国家間の海洋覇権抗争に拍車をかけたという見方もあるだろう。そして、ガレー船という存在が、元々は陸上兵力に付随する水上部隊をより独立した組織に引き上げさせた。ガレー船はその性能能力や船体規模、乗船人員は船個体で大小様々である。
人員組織は大きく二つに分かれ、漕手(こぎて)と操舵手(そうだしゅ)に分かれる。
漕手は暫くは奴隷が用いられていた。逆に操舵手は自由民や平民が多い。これはガレーの漕手が船の機能部品と考えられていたためである。戦闘に際しても漕手は、戦闘に直接参加しない事でも明らかである。所謂、水夫という言葉は、操舵手あるいは操船手を指す言葉である。彼らは戦闘に際して、直接戦闘に参加する。
それらを最終的に取りまとめるのが、船長・・・つまりキャプテン【CAPTAIN】である。
その言葉の由来は、個体組織の長の意から来ており、恐らくは、陸の隊商(キャラバン)隊長をキャプテンと呼んだ辺りから来ているのだろう。キャラバンは少ない時でも10人。多いときで100人規模の人員になる。そして有事は兵船に使用されるガレー船も平時は交易商船として活動していた訳であるから、共通性は高い。 また、船内組織の事務長や航海士、等も商船を基とした役職である。
この辺りの事情を考慮すると、海軍の兵制の成り立ちは平時組織をそのまま移行し、改良していった事が解る。
2.ガレー船の進化 |
さて、ガレー船の性能は交易範囲の拡大やより強固な航海能力の保持に伴って、機能進化が行われていく。船室層を増やし、甲板に櫂漕席が並べられていたのを下部に移して、甲板を広く取ったり、また舵の動きの効率を上げる為に、櫂漕席の多層化を試みたりしている。古代ギリシアやローマ帝国が誇った、三段櫂船はその発展した姿である。当然、その様な性能向上策は船体を大きくさせる事につながる。乗り込む人員や必要物資も増加する。
それらを山積しても安定する様に船が設計させ、建造技術が発達すると、ガレー船はある程度の重量兵器の搭載が可能な船になった。
例えば、投石機(カタパルト)や巨大な弓とも言える弩-いしゆみ-(ミサイル)である。
無論、船足は当然、鈍くなる。旋回径も大きくなるが・・・・・。
こうした兵器を搭載させた船は【戦列艦】と呼ばれ、文字通り海上で船体を並べて陣列を張り、石や焼玉(火で熱した石や青銅や鉄の玉。木製の船体に落下すると、大穴をあけた後、火災を発生させる。発明以来、古今東西で多用された代表的な艦載兵器)、弩から撃ち込まれる巨大な矢、等を射出し、弾幕を張る。
他方、従来のガレー船はそれらに比べて、圧倒的に小回り性能も速力性能も勝る。
逆により船体をコンパクトにまとめて、速度や旋回性能を改良させるべく、技術の向上が行われる。
そうして生まれた船は、従来からの
【衝角-ラム-(船首の水面下部分に金属の棒を垂直に設置し、体当たりで、相手の船の側舷に穴をあけて、浸水を促す兵器)】
を装備し、より接近戦闘に適した発展を遂げる。
またギリシア世界では、硝石などの薬品や油を用いた【ギリシア火】として後世に知られる、火炎放射器を開発し搭載した。或いは、ガラスレンズを利用した、光学兵器も作られている(要するに虫眼鏡の原理で、大きなフラスコの様な容器に水を入れてレンズとし、太陽の光を利用して、敵の船に火を付ける意図の物である)。
さらにその様な接近戦闘に長けた船を撃退するために、攻城戦で用いられる塔車の櫓を搭載した中型船が作られた。
戦闘の形態は、火矢を放ちつつ、体当で敵船に穴を穿ち、相手の船に乗り込んで、白兵戦を展開するという単純な物から、地上戦の様に陣形を組んで展開した戦列艦が砲撃を行って弾幕を張り、足の速さを生かして、その弾幕をくぐり抜け、小型のガレー船が肉薄し、戦列艦への直接攻撃を敢行。それを防ぐ為に、塔船が矢の射列を肉薄する小型船に浴びせる、という図式に至った。
これを近現代にすると、
戦艦が砲列を組んで、弾幕を張り、
駆逐艦が速力を生かして弾幕をくぐり抜け、魚雷を散布。
巡洋艦が打ち出された魚雷を始末しつつ、駆逐艦に応酬をしかける・・・・・。
要するに海上戦闘の基礎や考え方は紀元前のギリシア・ローマの時代には既に確立され、そして実践されていたのである。