河村城 〜神奈川県山北町〜
○解説
河村城の名前は14世紀に登場し、1352(文和元)年に足利尊氏に対抗した新田義興と脇屋義治ら南朝の勢力が、河村秀国・河村秀経らとを頼って河村城に立て籠もり、畠山国清ら北朝方の攻撃を受けています。そして翌年の南原の戦いで、南朝方は惨敗して河村一族の多くは討ち死しました。その後は上杉禅秀の乱で鎌倉公方方の城として記録に登場した後、しばらく歴史の表舞台から姿を消し、戦国時代に後北条氏の城として、武田信玄が支配する深沢城(静岡県御殿場市)に対する備えの城として普請が命じられたことが分かっています。ただし、実戦で使われることはありませんでした。
豊臣秀吉による小田原攻めの際には、「新城」と記載されて文献に登場。この際の河村城は周辺に新たに構築された可能性もあります。いずれにせよ後北条氏が滅亡すると、河村城は廃城となりました。現在は発掘調査に基づき河村城址歴史公園として整備され、中世山城の雰囲気をよく見ることが出来ます。特に、障子堀は必見です。
(撮影・解説:裏辺金好)
○場所
○風景
河村城縄張り図
茶臼郭
障子堀(茶臼郭〜小郭)
河村城の特徴の1つ。近隣の山中城ほどではありませんが、はっきりと障子堀の様子が見られます。
本城郭
障子堀(本城郭〜小郭)
堀切と木橋
本城郭〜蔵郭にある堀切の上に、当時の橋を思わせるような木橋が架けられています。ちなみに発掘調査の結果、ここに橋があったことは判明しています。
トイレと木橋
トイレも昔の建物風にデザイン。
障子堀(蔵郭〜近藤郭)
障子堀(蔵郭〜近藤郭) 発掘時の様子
近藤郭
大庭郭
河村城からの眺め