長浜城(伊豆国) 〜静岡県沼津市〜
○解説
長浜城の築城時期は明確ではありませんが、戦国時代に伊豆における北条水軍の根拠地である重須湊を守るために1579年頃に大々的に整備された水軍城。駿河に進入した武田信玄に対抗することを目的 としており、翌年には北条水軍と武田水軍が千本浜沖で交戦しています(駿河湾海戦。勝敗は不明)。豊臣秀吉の小田原攻めに際しては、北条水軍は小田原に集結したことから、小田原城の陥落に前後して廃城となっ たと考えられ、その後はマグロ漁の魚見場や近代には三井家による別荘地(昭和40年まで)となっていました。
そして、1985(昭和60)年に発掘調査が行われて遺構を確認。沼津市が用地を取得の上で、平成13 年度から平成26年度にかけて整備され、当時の雰囲気を今に伝えています。
(撮影・解説:裏辺金好)
○場所
○風景
長浜城地形模型
第四曲輪
凝灰岩の岩盤を削り落とすことで土塁にしているのが特徴。
第四曲輪から第三曲輪を見る
跳ね橋(想定)の跡
第三曲輪と土塁
現在は弁天社が建っています。
第二曲輪
第二曲輪と掘立柱建物跡
長浜城の中で最も広い曲輪。発掘調査に基づき、第1号建物と、それに直行する第6号建物の跡を復元しています。
掘立柱建物跡
第二曲輪(櫓)
発掘調査と周囲の状況により、第二曲輪と第一曲輪の連結する登り口の役割を果たしていたと推定。観光用の展望台ではなく、柱穴の跡に合わせて正確に復元したそうです。
第二曲輪(堀)
第二曲輪と第一曲輪の間に、池のように存在していた堀跡。
第一曲輪
西側から北側にかけて土塁がL字状に設けられているほか、門と柱跡と思われる跡が発見されています。
第二曲輪と第三曲輪を見る。
腰曲輪A〜D
第一曲輪から海に向かって、大小4つの曲輪が階段状に直線的に配置されています。
腰曲輪A
腰曲輪CからB、Aを見る
石垣の跡?
安宅船原寸大模型
長浜城ガイダンス広場
護岸遺構の復元も行われています。
大川家長屋門 【市指定有形文化財】
江戸時代後期築。長浜場近くにある旧家で、豊臣秀吉の小田原攻めの際に籠城を命じられた大川兵庫助の後裔と云われています。なお、大川家には戦国時代から近代までの膨大な漁民資料が残されていることを、1932(昭和7)年に民族学者で財界人であった渋沢敬三氏(渋沢栄一の孫で、日銀総裁や幣原内閣の大蔵大臣を務める)によって発見され、豆州内浦漁民資料として刊行。漁業史を語る上での貴重な資料となっています。