興国寺城 〜静岡県沼津市〜


○解説

 興国寺城は、愛鷹山の尾根である篠山を使って築城されたもので、築城年は不明ですが、今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いで甥の今川氏親を支援し勝利したことから 、1488(長享2)年頃に与えられたものです。

 伊勢盛時は興国寺城を拠点に勢力を拡大し、1491(延徳2)年に韮山に侵攻して堀越公方である足 利茶々丸を滅ぼして伊豆国を平定し、伊勢盛時は本拠を韮山城に移しました。一方、興国寺城は北条、今川、武田の各戦国大名の勢力争いにおける重要拠点となり、各々が奪い合う状況下に。

 1572(元亀2)年から1582(天正10)年までは甲相同盟によって北条氏・武田氏が同盟を結び、武田氏が領有しますが、武田氏が織田信長によって滅亡したことにより、今度は徳川家康が領有し 松平清宗を配置。 さらに、北条氏が滅亡して徳川家康が関東に入封すると、1590(天正18)年に豊臣秀吉の家臣で ある駿府城主となった中村一氏が領有します。

 そして、関ヶ原の戦い後に徳川家臣の天野康景が配され 、興国寺藩(1万石)が成立しますが、1607(慶長12)年に天領の農民との間に起ったトラブル に対する幕府の裁定に納得がいかずに出奔。そのまま興国寺藩は廃藩となりました。

 さて、興国寺城は北から順番に北曲輪、本丸、二の丸、三の丸が直線に並び、東側に清水曲輪があるという縄張りです(上写真は二の丸から本丸を見たもの)。また、天守台があったと伝えられる本丸の背後には大きな土塁と幅20mの大空堀がそびえており、見どころの1つとなっています。
(撮影・解説:裏辺金好)

○場所



○風景




本丸の様子

本丸にある穂見神社


北条早雲の碑


天野康景の碑


本丸の風景


本丸背後の土塁


石垣跡?

天守台跡

土塁から本丸、二の丸を見る

別角度より。三の丸も少し見えます。



大空堀


石火矢台跡

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