津久井城〜神奈川県相模原市緑区〜
○解説
旧津久井町にある津久井城は筑井城、築井城とも表記し、相模国西北部に位置する山城。武蔵、甲斐との国境にあり、相模川に接し、さらに甲州街道へ向かう津久井往還にも近いことから、古くから軍事的な要所として知られてきました。その起源は鎌倉時代、三浦半島を拠点とする三浦一族である筑井氏が築城したものと云われ、戦国時代に後北条氏が領有したことによって本格的な整備が行われました。この際、北条氏は内藤氏を配置し、武田家に対する前線として機能してきました。しかし、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原北条攻めの際、小田原城に詰めていた城主の内藤景豊を留守を守る家臣団は、徳川家の本多忠勝、平岩親吉率いる12000人の軍勢に攻められて落城。城としての役目を終え、その後は徳川家の直轄領として、この地を治める陣屋が置かれました。
さて、根小屋には内藤氏の居館が整備されたことが、発掘調査の結果で裏付けられています。このため、津久井城は根小屋式山城として解りやすい好例です。一方、山頂部には本城曲輪を中心に階段上に曲輪が配置され、土塁や石垣が残ります。
現在は県立津久井湖城山公園として整備され、城跡の周囲には散策路が整備。また、横浜線のJR橋本駅からバスが多数運転され、アクセス性は抜群。・・・なのですが、そこは山城。急峻な登山道も多く、麓から本城曲輪を往復するだけならともかく、全容を見ようと思った場合は、くさり場伝いに進む場所も多々あるため、要注意です。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
津久井城復元模型
津久井城の南西から北東を見た姿。白くなっている部分は津久井湖ですが、これはダムによる人造湖。当時はありません。山頂部は、西峰に本城曲輪、太鼓曲輪、東峰に飯縄神社のある飯縄曲輪を中心として、小曲輪が配されています。
津久井城復元模型
今度は北から南を見た姿。パークセンターにある復元模型は、津久井湖の部分を取り外すことが出来、現在と過去の相模川を対比することが出来ます。
パークセンター周辺
江戸時代には陣屋が置かれた場所。パークセンターの雰囲気が当時の面影を演出しています。
牢屋の沢
パークセンターの近く。場所は特定されていませんが、江戸時代には罪人を入牢する水牢があったと伝えられています。戦国時代には堀だったものを転用したのではないかと推定されます。
御屋敷跡
戦国時代に内藤氏の居館があった場所。掘立柱建物跡や焔硝蔵跡、空堀、土塁跡などが確認され、さらに江戸時代には礎石建物や虎口をもつ陣屋関連施設が置かれていました。
太鼓曲輪
家老屋敷の石垣
太鼓曲輪に行く直前に、石垣が見えます。訪問時には枯れ葉に覆われていたので、最初は通りすぎてしまいました。
家老屋敷
案内がないため、太鼓曲輪へ行く途中の分岐を見落としてはいけません。この真上が、太鼓曲輪です。
堀切が解りやすく見えるのはこの部分でしょう。
築井古城記碑
1816(文化13年)頃、戦国時代に城主を務めた内藤氏の家臣である島崎氏の末裔で、根小屋村の名主であった島崎律直が本城曲輪周囲の土塁へ設置。城の地形や沿革、城主の内藤氏について記載しています。碑文の作成には松平定信をはじめ一流の文化人が関わっています。
築井古城記碑
内藤氏はその後、徳川家重臣の阿部家(碑文作成当時は福山藩主)、植村家(碑文作成当時は大和高取藩主)に仕える2家に別れましたが、島崎家はこの地にとどまりながら、未だ内藤家への臣僕の礼を執ってきたことが記されています。(クリックすると拡大表示されます)
本城曲輪