小諸城と小諸宿〜長野県小諸市〜
○解説
小諸城は1487(長享元)年に大井光忠が築城したものと考えられ、戦国時代に武田信玄によって現在の縄張りにされました。武田家が織田信長によって滅亡すると、織田家の重臣である滝川一益が一時領有しますが、織田信長が本能寺の変で討たれたことにより滝川勢は関東甲信地方から引き揚げ、佐久郡の国衆・依田信蕃が領有します。
さらに、1590(天正18)年に豊臣秀吉の小田原北条攻めで功績のあった仙石秀久が5万石で入封され、近世城郭に改修。1622(元和8)年に仙石忠政が上田へ転封されて以降、江戸時代は松平氏、青山氏、酒井氏などが領有し、1702(元禄15)年に牧野康重が封じられてからは、明治維新まで牧野氏が領有しました。
城下町より低い位置に城を築いた「穴城」という珍しい形式で、現在のその雰囲気を感じることができます。また、仙石秀久が築城した頃に構築された野面積の石垣や大手門、1765(明和2)年に建てられた三の門(上写真)が残り、これらの門は国の重要文化財に指定。
また、三の門より内側は、明治維新後に懐古神社が建てられ、懐古園と称しています。三の門の扁額は、徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと)による揮毫です。このページでは、城下町に残る古建築も併せて紹介いたします。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
大手門 【国指定重要文化財】
仙石秀久が小諸城を築城したころの建築。明治維新後は小諸義塾の教室などに使われ、民有となっていましたが、2008(平成20)年に小諸市によって江戸時代の姿に復原されました。ちなみに三の門とは、しなの鉄道線によって分断されています。
二の丸跡
武器庫
1817(文化14)年築。明治維新後は都内に移築されていたものを、復元したもの。
天守台
懐古神社
本丸跡に建っています。
○周辺に残る古い町並み
旧小諸本陣問屋 【国指定重要文化財】
19世紀初めの建築。北国街道小諸の本陣と問屋を勤めていた上田家の住宅で、出格子で飾った正面を見せた姿が特徴的。明治時代中頃、田村家の所有となっていましたが、1993(平成5)年に小諸市が寄贈を受けています。
小諸宿本陣主屋
19世紀初めの建築頃の建築で、こちらは参勤交代の大名が宿泊した場所。先ほど紹介した問屋の奥にありました。1878年に佐久市の桃源院に移築されて本堂や庫裡として使用されていましたが、1995(平成7)年に小諸市へ寄贈され、大手門付近へ再移築されています。
小諸郵便局発祥の地
小諸藩城代家老屋敷跡/鍋蓋城跡
大井氏が小諸城(鍋蓋城)を築城したころの中心地。江戸時代には、藩主が参勤交代時に小諸藩を不在にする際に藩を取り仕切った城代家老の屋敷が置かれました。
小諸市北国街道ほんまち町屋館 【国登録有形文化財】
1923(大正12)年築。笠原久平氏により新築されたもので、屋号を清水屋として醤油味噌醸造業を営んでいた旧商家です。
そば七
江戸時代後期に脇本陣代として建てられたもので、入口の向拝が特徴的。
萬屋骨董店店舗兼主屋(旧・小諸銀行) 【国登録有形文化財】
明治時代中期の建築で、土蔵造町家風の銀行建築。 1階2階を通した2層分の袖卯建が印象的です。
小諸市立小諸義塾記念館
1896(明治29)年築。小諸義塾はキリスト教牧師であった木村熊二が1983(明治26)年に開校した私塾で、内村鑑三らが講演会や、島崎藤村が英語・国語の教鞭を執ったことで知られています。先ほど登場した小諸城の大手門の2階を使った後、小諸駅南側に上写真の洋風建築を新築して移転。1906(明治39)年に財政難によって閉校するまで使用されました。その後、校舎は小諸町立小諸商工学校、小諸幼稚園として使われたのち、木村の友人であった田村源一郎医師が引き取り、診察室や病室として使用。1994(平成6)年に小諸市が取得し、小諸義塾記念館となっています。