足助城(真弓山城)と古い町並み〜愛知県豊田市足助町〜
○解説
足助城(真弓山城)は標高301mの真弓山に築城されたもので、正式な築城年代は不明ですが戦国時代にこの地を治めた、足助鈴木家(三河西北部における有力国人、三河鈴木氏の一族)の本城であったと考えられています。1525(大永5)年に徳川家康の祖父、松平清康が足助城を攻めた記録があり、この際に清康の妹である久が鈴木重政の嫡子・重直に嫁いでいます。その後、三河鈴木氏は今川氏、松平氏、織田氏との間で離反や服属を繰り返しますが、足助鈴木家は1564(永禄7)年に松平家康(のち徳川家康)に攻められて完全に服属。
1571(元亀2)年には武田信玄が25,000人の軍勢で三河に侵攻し、足助城が落城。この際、下条信氏が城代を務めています。
さらに、1573(元亀4)年に家康の長男、松平信康が足助城を奪還し、鈴木康重が足助城に戻ります。
そして1590(天正18)年、徳川家康が豊臣秀吉による小田原北条攻めの後に関東に入封された際、鈴木康重もこれに従ったことから足助城は廃城となりました。
1993(平成5)年に足助町制施行100周年を記念し、発掘調査に基づいて高櫓・長屋・物見矢倉・厨(くりや)などの建物が復元されました。
(写真:リン/解説:裏辺金好)
○場所
○風景
案内図
堀切
南の丸腰曲輪
井戸
西物見台
柵列
南の丸
角ばった扇形に造られています。
厨
厨(くりや)は食事の準備をするところという意味です。武具の手入れや草鞋作りなども行っていたと想定の上、復元されています。
こちらは別の厨
カマド小屋
南物見台
矢倉の上から、南方に鶏足城(けっそくじょう)を望むことができます。
高櫓と長屋
江戸時代における天守閣にあたる建物。柱穴跡からこの場所には2時期の建物があったことが判明したことから、後期のものを推定復元しています。
高櫓からの眺め
足助の町並みを眼下に見下ろし、信州と美濃方面の街道、三河、尾張方面の街道を臨むことが出来ます。
北腰曲輪
○足助の町並み
足助陣屋跡
1681(元和元)年、白河藩主(福島県)の本多忠義の5男である本多忠周(ただちか)が5千石分知されて足助陣屋を構えます。一時は1万石まで加増され足助藩となりますが、1687(貞享4)年に徳川綱吉から職務怠慢を理由に寺社奉行を解任されたのち、1689(元禄2)年に7000石に削減。以後、幕末まで旗本として存続しました。
明治維新後は伊那郡足助庁、東加茂郡役所、足助町役場、愛知県足助農林振興センターとなっています。
足助八幡宮
足助八幡宮本殿 【国指定重要文化財】
1466(文正元)年築。
足助の町並み 【国重要伝統的建造物群保存地区】
江戸時代初期に形成された町並みを基本とし、1775(安永4)年の大火後に防火のため漆喰で軒先まで塗り固めた塗籠造りの町家が、今も数多く建ち並んでいるのが特徴です。
旧鈴木家住宅 【国指定重要文化財】
1776(安永5)年築。主屋をはじめ16棟が建っています。屋号を「紙屋」といい、紙をはじめ様々な商品を取り扱ってきた商家です。2023年度の公開を目指して保存修理が行われています。
マンリン小路