長浜城・大通寺と古い町並み〜滋賀県長浜市〜
○長浜城の解説
長浜城は1573(天正元)年、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が近江の戦国大名である浅井長政攻めの功により浅井氏の旧領が与えられた際、当時は「今浜」と呼ばれていた地を、信長より一字拝領して「長浜」と改め、築城したものです。琵琶湖にせり出した形が特徴で、水門を通じて舟の出入が可能な構造でした。1582(天正10)年に織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれ、さらに明智光秀討伐後の清須会議で長浜は柴田勝家の領地に。勝家の甥、柴田勝豊が入城しますが、同年末に羽柴秀吉が長浜城を攻略。翌年に賤ケ岳の戦いで柴田勝家が敗北すると、長浜城は秀吉配下の山内一豊が約6年間領有します。
関ヶ原の戦いの後、徳川家譜代の内藤信成・信正が城主として入城しますが、摂津国の高槻に移封され、1615(元和元)年に廃城になりました。長浜城の資材の大半は、彦根城に流用され、特に彦根城天秤櫓は長浜城に由来すると云われます。このほか、大手門は長浜市の大通寺の台所門、搦手門が同じく長浜市の知善院の表門として移築され現存しています。
上写真は1983(昭和58)年、本丸天守台跡西側へ復興されたは3層の模擬天守。市立長浜城歴史博物館として使用されています。このほか、周辺は豊公園として整備されています。
(写真&解説:裏辺金好)
○場所
○大通寺
長浜別院 大通寺は真宗大谷派(東本願寺)の別院で、正式には無礙智山(むげちざん)大通寺といいます。元々は1602(慶長7)年に本願寺第十二代教如によって旧長浜城に創建されたもので、彦根藩第2代藩主の井伊直孝の寄進によって、1662(慶安4)年に現在地へ移転したもの。伏見城の遺構とされる本堂や、前述のとおり長浜城大手門を移築した台所門など、様々な古建築の宝庫です。
山門 【長浜市指定文化財】
1841(天保12)年築。東本願寺の山門を模したもので、後に東本願寺の山門が焼失すると、これを元に復興しました。
台所門 【長浜市指定文化財】
長浜城の大手門を移築したもの。元々は山門の位置にあったそうです。
本堂 【国指定重要文化財】
寺伝によると伏見城の建物の1つを、徳川家康から本願寺教如へ贈ったもの。東本願寺御影堂として使われた後、承応年間(1652〜54年)に移築したものです。
大広間(附玄関) 【国指定重要文化財】
こちらも同じく伏見城の遺構と伝わるもので、承応年間(1652〜54年)に移築したものです。なお、玄関(内部は写真2枚目)は1760(宝暦10)年に増築されたもの。
大広間 【国指定重要文化財】
新御座 【長浜市指定文化財】
元々は1787(天明7)年に彦根藩から寄進されたもので、幾度かの改築を経て1912(大正元)年に現在の姿に。
含山軒庭園
含山軒庭園
蘭亭 【国指定重要文化財】
1755(宝暦5)年築。
蘭亭庭園
○北國街道沿いの町並み
長浜旧開知学校 【国登録有形文化財】
1874(明治7)年築で、1936(昭和11)年に現在地へ移築。木造3階建、八角塔屋付の擬洋風建築。現在は会議室などで使用されています。
旧・国立第百三十銀行長浜支店(現・黒壁ガラス館)
1900(明治33)年築。黒漆喰の壁であったことから「黒壁銀行」として親しまれました。1954(昭和29)年からは長浜カトリック教会となり外観が白くなります。その後、取り壊しの危機から長浜市と地元民間企業8社が出資した第三セクター「黒壁」が1988(昭和63)年に設立され、黒壁一號館「黒壁ガラス館」として再生。
その後、この建物を核に周辺の建物が次々と再生され、長浜を代表する観光地となっていきます。
黒壁5號館 札の辻本舗
北国街道安藤家
1905(明治38)年築。安藤家は室町時代に長浜に移り住み、豊臣秀吉によって長浜の自治を委ねる「十人衆」を選ばれ、江戸時代はさらに十人衆から選ばれる三年寄の一家として活躍しました。明治以降は呉服問屋となり、福島県を拠点とする百貨店「中合」の創業にも関わっています。
北国街道安藤家
北国街道安藤家「小蘭亭」
離れである「小蘭亭」は、北大路魯山人が天井絵・篆刻 額・篆刻扉・襖・障子・地袋を手掛けています。