肥前)名護屋城〜佐賀県唐津市〜


○解説

 名護屋城(肥前名護屋城)は、1591(天正19)年に豊臣秀吉が朝鮮出兵の前線基地として東松浦半島北端に築城を開始させた平山城で、黒田孝高・長政親子や、加藤清正、小西行長ら九州の大名が中心となって総がかりで翌年に完成。

 その規模は約17万平方メートルで、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪等を持ち、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守を備え、豊臣秀吉も約1年間滞在。さらに城のみならず周囲に諸将の陣屋が約120余りが築かれ、常時約20万人が滞在しました。

 しかし、豊臣秀吉が亡くなり朝鮮から撤兵すると、名護屋城は役目を終えて廃城に。一部は1602(慶長7)年にこの地を領有した寺沢広高によって唐津城の築城に資材が転用されたほか、1637(寛永14)年に発生した島原の乱の際に名護屋城が利用されないよう、石垣が破壊されたとも云われています。
(写真:リン/解説:裏辺金好)

○場所



○風景



名護屋城復元模型


名護屋城復元模型



大手口
城内への入り口は5か所設けられ、大手口は東側に櫓、西側に三の丸東南隅櫓が設けられていました。


三の丸・大手口復元模型



東出丸

三の丸
本丸の東側に位置し、南北110m×東西75mの大きさ。



三の丸櫓台
名護屋城で最大規模を誇る櫓台。




本丸大手門跡

埋められた石垣
発掘調査により大規模な石垣の最上段であり、本丸の内側をなぞるように天守台まで続いていることが判明していますが、なぜ埋められたのか不明。完成後に設計変更したもの?


本丸
ほぼ正方形で、横矢掛(側面射撃)のために要所で城壁を折り曲げています。また、天守閣のほか全長50mにも及ぶ多聞櫓を配置していました。


天守台


天守閣復元模型




本丸から見た二の丸跡

本丸から見た遊撃丸跡



本丸多聞櫓跡


山里丸


山里丸への入口







弾正丸より臨んだ馬場と本丸
写真左上が本丸、二の丸方向。左の高石垣は馬場の櫓台です。なお、御覧のとおり馬場の石垣は破却によってV字型に崩されています。

↑ PAGE TOP