喜連川陣屋〜栃木県さくら市喜連川〜
○解説
旧喜連川町の喜連川陣屋(きつれがわじんや)は、平安時代末期に塩谷五郎惟広が「お丸山」に築城した大蔵ヶ崎城(おおくらがさきじょう/喜連川城とも)を起源とし、塩谷氏は17代400年にわたりこの地を支配しました。豊臣秀吉による小田原征伐の際に遅参したとして塩谷氏は改易され(または出奔したとも)、秀吉によって足利国朝が喜連川に3500石を与えられて入封します。
足利国朝は、鎌倉公方足利氏の後裔で、戦国時代に分裂した古河公方家と小弓公方家のうち、小弓公方の足利頼純の子。秀吉は男児の絶えた古河公方家の足利氏姫を娶らせ、両家を統一させます。しかし文禄慶長の役の際、肥前名護屋に向かう途中、安芸で足利国朝は急死。弟の足利頼氏が足利氏姫と再婚して家督を相続。喜連川氏と称しました。
そして1593(文禄2)年、喜連川頼氏は喜連川城の麓に陣屋を築城。関ヶ原の戦い後、徳川家康によって1000石が加増され4500石となり(のち5000石)、喜連川藩が立藩。その家柄から10万石の格式や参勤交代免除といった特権が与えられたほか、喜連川は奥州街道の宿場町として栄えます。
喜連川氏は幕末までこの地を治め、明治維新を迎えます。現在、陣屋の遺構はこれといって残っていませんが、その敷地の一角(さくら市喜連川庁舎付近)に大手門風の建物が構築されています。このほか、市内の個人宅に裏門が移築現存しています。
(写真&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
お丸山公園