玖島城〜長崎県大村市〜


○解説

 肥前大村藩の初代藩主である大村喜前(よしあき)が、それまでの三城城(さんじょうじょう)に代わって1599(慶長4)年に築城したもの。朝鮮出兵の際に大村喜前が立てこもった朝鮮の順天城が海に面し、大群に囲まれても守りやすかったことから、三方を海に囲まれた要害であった玖島を築城場所として選定しました。
 1614(慶長19)年に第2代藩主の大村純頼(すみより)が大改修を行い、大手を北側から南側に移したほか、石垣を野面積みから、打ち込み接ぎ(はぎ)で改修し、石の角や面を加工し、高く反り返る形状にしています。これには、大村喜前と親交のあった加藤清正の助言があったともいわれます。
 本丸には天守閣は設けられず、藩主居館を中心に、6つの櫓が周囲に配されました。また、御船蔵などの海城らしい施設がもうけられているのが特徴です。
 幕末まで戦火に遭うこともなく大村氏が治める大村藩2万7000石の居城として長く使われましたが、1871(明治4)年に廃城。建物はすべて破却され、1884(明治17)年に旧家臣団によって大村氏歴代を祀る大村神社が本丸に創建されました。
 1992(平成4)年には板敷櫓(上写真)が再建されるなど、本丸周辺の整備が行われています。
(撮影:リン/解説:裏辺金好)

○場所



○風景



板敷櫓
石垣は反り返った扇の勾配










お船蔵跡 【長崎県指定史跡】
藩主が乗船する御座船等を格納した場所。なお、このすぐ近くにある大村市教育の館には、第10代藩主の大村純昌が建てた別邸と庭園が残されています。また、城下にはこのほか、大村藩の藩校であった五教館御成門(県指定史跡)や、幕末の大村藩の重臣で、東京府知事や衆議院議長を歴任した楠本正隆が明治3年に建てた屋敷(県有形文化財)などが残ります。

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