新田金山城〜群馬県太田市〜
○解説
新田金山城(にったかなやまじょう/単に金山城と表記されることも)は、太田市にある新田金山全体の自然地形を利用しながら造られた山城で、1469(文明元)年に新田一族の岩松家純が築城したもの。1528(享禄元)年に岩松氏の重臣、横瀬(由良)成繁が岩松守純から金山城を奪って下剋上。以後、 上州が越後上杉氏、甲斐武田氏、相模(小田原)北条氏の主戦場となる中、金山城は10回の攻撃を受けますが中枢に攻め込まれることなく防衛。1584(天正12)年には北条氏の謀略によって、北条氏の直接支配に組み込まれたのち、1590(天正18)年に豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、金山城も廃城になりました。
その後は、「献上松茸」の御林として管理されたことが幸いして遺構が残り、1934(昭和9)年に国の史跡に指定。さらに1995(平成7)年からに「金山城跡環境整備事業」がスタートし、2001(平成13)年に約1.4ヘクタールの整備が完了。往時の威容を取り戻しています。
関東の城では珍しく石垣を多用しており、上写真の大手虎口は圧巻ともいえる雰囲気。また、山麓に2009(平成21)年に整備された史跡金山城跡ガイダンス施設・太田市金山地域交流センターは、建築家の隈研吾氏による設計で、石垣をイメージした外観が特徴です。
(撮影&解説:裏辺金好 ※特記を除く)
○場所
○風景
史跡金山城跡ガイダンス施設・太田市金山地域交流センター
金山城跡の歴史を学ぶことができます。凄い外観…。
金山城全景
あくまで山頂付近の様子なので、山麓から含めると物凄い威容に・・・。
ガイダンス施設付近から。
旧通路
古い時代に使われていた通路の跡。
西矢倉台西堀切
西矢倉台下堀切
西矢倉台通路
馬場下通路
物御台下土橋から竪堀までの間の石敷きの通路で、防御のため見通しがきかないように曲がっているのが特徴。
竪堀
木橋
馬場下通路と礎石建物跡
馬場下通路自体は写真手前側に向かって行き止まりとなり、2棟の建物が存在。城内への通路は上へ登り、物見台からの通路に合流します。
馬場下通路と掘立建物跡
こちらが通路の終点と、もう1つの建物跡。
物見台と馬場通路
復元模型 (撮影:Mr.S)
ガイダンス施設で展示されている推定復元模型。これまでご紹介した物見台や馬場下通路、竪堀などを南側から見た様子です。
馬場曲輪
時代に応じて様々な建物が建て替えられたほか、中央には石組み排水路、曲輪を柵で囲んでいたことが判明しており、復元されています。
大堀切
大手虎口の目前にあり、長さ約46m、深さ約15mもあります。さらに、堀底には石積みの防御施設も見つかっており、堀切を通って敵兵が侵入するのを防いだと考えられます。
月の池
大手虎口の手前にあり、上下二段の石垣で囲まれた池。
大手虎口
大手通路とその両脇に檀上の曲輪が整備。さらに大手通路の先は行く手を阻む正面土塁で防御するという、鉄壁の守り。
大手虎口復元模型 (撮影:Mr.S)
正面土塁を背景に。通路には排水路も整備されています。
井戸跡
日ノ池
15m×16.5mの円形の池。生活用水の確保のほか、戦勝や雨ごいを行った儀式の場と考えられています。
本城(実城)
金山城の中枢で、城主の御殿などがあったエリア。
本丸(天守曲輪)
現在は新田神社(上写真)と御嶽神社が鎮座。明治6年に旧尾張藩主の徳川慶勝の援助で建立したもの。
御嶽神社
明治6年に旧尾張藩主の徳川慶勝の援助で建立したもの。
本丸(天守曲輪)からの眺め