若桜鬼ヶ城〜鳥取県若桜町〜
○解説
若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)は、標高452mの鶴尾山に築城されたもので、播磨・但馬両国に通じる街道の結節点に位置する因幡の重要拠点でした。正確な築城時期は不明ですが、1200(正治2)年頃に矢部氏が梶原景時追討の功でこの地に入封され、1489(延徳元)年に山名政実、矢部山城守、毛利次郎が「矢部館若狭(桜)」で自害したという記録があることから、この頃には城が存在していたと思われます。
戦国時代末期まで矢部氏の居城として使われますが、1575(天正3)年以降は山中幸盛(鹿介)による尼子氏再興の戦いで落城したのち、毛利方がすぐに奪取し、吉川元春が入城。さらに羽柴秀吉率いる織田軍により奪取され、鳥取城攻めの拠点の1つとなります。羽柴秀吉が因幡を平定すると、その配下である木下重堅が入城。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後に木下重堅が改易されると、山崎家盛、家治親子が領有。
1617(元和3)年に山崎家治が備中成羽3万石に移封されると、鳥取城に入った池田光政が領有しますが、一国一城令に伴い廃城となりました。
城郭の遺構は大きく2群に別れ、尾根の中腹から先端部にかけて堀切、竪堀と小規模な曲輪群で構成されたエリアと、山頂付近で石垣を用いて虎口や天守台などが構築されたエリアがあります。前者は戦国時代、後者は近世初頭に造られたと考えられ、このうち近世初頭のエリアは本丸、二の丸、三の丸に石垣が残るほか、廊下橋虎口など他の城では見られない特徴が見られます。
なお、2017(平成29)年に続日本100名城(168番)に選定されています。
(撮影:リン)
○場所
○風景
案内図
馬場
ホウヅキ段から天守方向
本丸南西側(ホウヅキ段→二の丸方面)
本丸南西側(ホウヅキ段→二の丸方面)
こちらは石垣が一部破壊され、一国一城令に伴う破城された姿が確認できます。
本丸石垣(西の角)
本丸石垣(北西側)
二の丸
三の丸からの若桜の町(ちょうど列車が郡家方面に発車したところ)
三の丸
大手門(二の丸側から)
大手門(正面側から)
本丸(奥が天守台)
本丸(奥が天守台)
本丸に散乱していた瓦の破片
天守から東側
画面左の丁字路が国道29号・482号交点。左上が氷ノ山(但馬)、右上が姫路(播磨)方面への街道
天守
天守の礎石
六角石垣
古期の石垣