吉田城と豊橋市公会堂、豊橋ハリストス正教会〜愛知県豊橋市〜
○解説
吉田城は元々、1505(永正2)年に長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により築城した今橋城が始まりと云われ、東三河の要所として松平家と今川家による攻防の舞台となりました。1560(永禄3)年に今川義元が桶狭間の戦いで討たれたのち、1565(永禄8)年に松平家康(のち徳川家康)が攻略すると酒井忠次を城代として置き、武田家の侵攻を防ぐ拠点となりました。1590(天正18)年に徳川家康が関東へ入封されると、池田輝政が15万2千石で入城。吉田城と城下町の大規模な整備に取組みますが、豊川を背後に控えた本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」として縄張りを構築。しかし、関ヶ原の戦い後の1601(慶長6)年に池田輝政は姫路に入封され、吉田城は譜代大名が3万石〜8万石の規模で次々と入れ替わります。
明治維新後、吉田は豊橋に改名されるとともに、城の敷地は兵部省の管轄に。1873(明治6)年に失火により大半の建物を焼失した後、1875(明治8)年には大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれました。太平洋戦争後は一部を除き豊橋公園として整備され、1954(昭和29)年に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建されています。
なお、城跡には陸軍歩兵第18連隊の遺構もあるほか、周囲には1931(昭和6)年建築の豊橋市公会堂、1913(大正2)年築の豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂もあります。併せてご紹介します。
(撮影:裏辺金好)
○場所
○風景
吉田城と城下町
二川宿本陣資料館にて撮影。区画整理によって当時の町割りは大幅に改変されていますが、旧東海道は辛うじてたどることができます。城跡は本丸が残るほか、二の丸と三の丸の一部が残ります。
東海道吉田宿本陣跡
吉田宿は東海道五十三次の江戸側から数えて34番目の宿場でした。1802(享和2)年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒があり、賑わっていました。写真1枚目の右側に本陣、左側に脇本陣がありました。
東海道吉田宿問屋場跡
大手門跡
古写真は明治時代初めに撮影されたもの。
三の丸口門跡/歩兵第十八聯隊正門と哨舎
吉田城には歩兵第十八聯隊が置かれ、三の丸口門跡には1898(明治31)年に営門が新設されました。現在は昭和10年代に建てられた鉄筋コンクリート造の正門と出入りをチェックする哨兵の小屋(哨舎)が残ります。
三の丸土塁と歩兵第十八聯隊弾薬庫
写真背後は三の丸土塁。吉田城は本丸に石垣が使われたほかは、土塁の城でした。写真手前は歩兵第十八聯隊の弾薬庫で鉄筋コンクリート造。
太鼓櫓跡
二の丸口門跡
冠木門跡と本丸南御多門跡
冠木門を抜け、内堀を渡ると南御多門があり、本丸に入ります。
当時の様子
本丸内堀
鉄櫓
北側と西側の石垣は、池田輝政時代の造られた野面積の遺構。それ以外は名古屋城築城時に余った石垣を転用したもの。コストカットですね。
鉄櫓付近の内堀
本丸北御多門跡
川手櫓跡
腰曲輪跡
豊川に面した北側は石垣でしっかりガード。
豊川から見た往時の風景
明治時代初期の撮影。既に鉄櫓はありませんが、手前に川手櫓、奥に入道櫓が残っていました。
歩兵第十八聯隊灰捨て場
タバコの吸殻と暖炉の灰を集めて捨てた場所。
豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂 【国指定重要文化財】
1913(大正2)年築。ハリストス正教会の司祭建築家である河村伊蔵の設計で、玄関を西側に設け、東に向けて啓蒙所、聖所、至聖所を一直線に並べる、ハリストス正教会聖堂に共通する形式で建築。玄関の上には八角形の鐘塔を載せています。
豊橋市公会堂 【国登録有形文化財】
1931(昭和6)年築。中村與資平の設計で、鉄筋コンクリート造3階建て。豊橋市制25周年を記念したもので、玄関の半円アーチや3階の2連アーチ窓などロマネスク様式を基調としながら、スペイン風の円形ドームを載せているのが特徴です。