二俣城〜静岡県浜松市天竜区二俣町〜


○解説

 二俣城は周囲を天竜川に囲まれた山城で、正確な築城時期は不明ですが、戦国時代に遠江を巡って斯波氏と今川氏が争った際、現在の浜松市天竜区役所付近の平地に今川氏が城館を造ったのが始まりとされます(笹岡城/二俣古城)。そして桶狭間の戦い(1560年)以降に今川氏が現在地(笹岡古城から南西へ行った場所)に本格的に築城したと考えられ、今川氏が滅亡すると、徳川家康が領有しました。
 1572(元亀3)年から1575(天正3)年にかけては徳川家康と武田信玄・勝頼親子の攻防の舞台となり、武田勝頼の攻撃で二俣城を失った徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄と激突して浜松城に敗走。武田信玄死後、1575(天正3)年に長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田勝頼を打ち破った際に、家康は二俣城を攻めて取り戻し、重臣の大久保忠世を置き、その後の武田家の反撃を退けました。
 1579(天正7)年には徳川家康の息子、松平信康がその母親で家康の妻である築山御前と共に武田方に内通したとして、織田信長の要請で切腹(※家康との対立が原因という説もあります)。
 1590(天正18)年に徳川家康が関東に移封されると、豊臣家重臣の堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となりますが、1600(慶長5)年に堀尾氏が転封すると廃城となりました。
 縄張りは北曲輪、本丸、二之曲輪、蔵屋敷、南曲輪を一直線に配置。本丸の南北に虎口を設け、北虎口は喰い違い虎口となっています。現在は天守台・石垣・土塁などが残っています。また、南西には二俣城の付城であった鳥羽山城跡があり、こちらも石垣が残っています。
 (撮影:リン)

○場所



○風景


現在の状況
城山公園として整備されています。


堀切


北曲輪跡/旭ヶ丘神社
北曲輪跡には1909(明治42)年創建の旭ヶ丘神社が建ち、日清・日露戦争以降の英霊を祀っています。


本丸への道




本丸・天守台跡
本丸には野面積の天守台が残ります。



城山稲荷神社





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