新井城〜神奈川県三浦市〜


○解説

 新井城の築城年代は不明ですが、この地を治める平安時代末期以来の武家、三浦氏の城として小網代湾と油壺湾の間を西へ張り出した岬に築かれ、三方を海に囲まれた天然の要害でした。

 三浦氏は鎌倉幕府の有力御家人として活躍しますが、1247(宝治元)年に三浦泰村らが鎌倉幕府執権の北条氏と安達氏によって滅ぼされ一族の大半が滅亡。北条方についていた三浦盛時が三浦宗家を継承し、やがて戦国大名の相模三浦氏となります。

 戦国時代初期に三浦時高の養子となった扇谷上杉家出身の三浦義同(よしあつ/出家後は道寸)と、三浦時高の実子である三浦高教が対立。1494(明応3)年に三浦義同は新井城の三浦時高、高教親子を攻め、これを滅ぼします。新井城は三浦義同の子である三浦義意が領有し、三浦義同は岡崎城(平塚市・伊勢原市にまたがる)を拠点とし相模国に一大勢力を築きました。

 しかし1512(永正9)年、突如として勢力を台頭させてきた小田原の伊勢宗瑞(北条早雲)によって岡崎城、次いで住吉城(逗子市)を攻略された三浦義同(道寸)は新井城に立て籠もり、3年にわたって抵抗を続けますが、1516(永正13)年に落城し、全滅。この際、三浦家主従たちの遺体によって湾一面が血に染まり、油を流したようなようであったことから、同地が油壺という名前になったという逸話があります。

 現在、新井城の敷地の大半は東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所となっており立ち入りできませんが、周囲に残る土塁や空堀を見ることができます。なお、南方約3kmの位置には三崎城があり、三浦氏時代には新井城と一体的な運用がされていたとも云われます。
 (撮影:裏辺金好)

○場所



○風景





空堀

三浦義意公の供養墓


三浦道寸公の供養墓

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