勝瑞城〜徳島県藍住町〜
○解説
勝瑞(しょうずい)の地は、旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、室町時代の阿波国守護で幕府管領を務めた細川氏と、戦国時代に細川氏に取って代わった三好氏の本拠として使用されました。その整備時期は諸説ありますが、遅くとも15世紀後半までに細川氏が秋月城(阿波市土成町秋月)から勝瑞へ守護所を移したと考えられ(勝瑞城館)、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形と呼ばれました。海運や水運によって畿内と結ばれ、勝瑞は物資の集積拠点と文化の中心となり、城下町には多くの市や寺院が繁栄します。発掘調査によると勝瑞城館からは枯山水庭園と池泉庭園も見つかっています。
1553(天文22)年に三好義賢(実休)は主君である細川持隆を自害に追い込み、細川家の実権を掌握。また、兄である三好長慶らは管領の細川家や畠山家を抑え、機内で絶大な勢力を誇りました。
しかし、1562(永禄5)年に三好義賢が和泉国で戦死し、1564(永禄7)年に三好長慶が死去すると、三好家は内紛状態に。一方、勝瑞城は三好義賢の子である三好長治が領有しますが、1578(天正6)年に土佐の長宗我部元親の後援を受けた細川真之(細川持隆の子で三好長治の異母兄)によって討たれます。
そこで三好長治の実弟である十河(三好)存保が勝瑞城主として擁立され、織田信長の助力も得ながら長宗我部元親に対抗。この頃、守護所(勝瑞城館)の北東側へ詰の城として土塁を持つ詰の城が拡張整備されます(勝瑞城)。しかし、1582(天正10)年に織田信長が討たれると長宗我部元親は勝瑞城に向けて進軍。中富川の戦いで十河存保は大敗し、阿波と勝瑞城を放棄して讃岐へ逃れ、勝瑞城の歴史に幕が閉じました。
そして1585(天正13)年に蜂須賀家政が豊臣秀吉から阿波を与えられ入封すると、徳島城を築城するとともに、勝瑞にあった寺院を移し、勝瑞は田園地帯へと化しました。
現在は三好氏の菩提寺である見性寺の境内に勝瑞城の土塁、濠が残っています。見性寺は元々は勝瑞城の西方にありましたが、江戸時代中期にこの地へ移転しました。
一方、守護館跡や三好氏の居館跡の場所が長らく不明だったのですが、1997(平成9)年からの発掘調査によって県道松茂吉野線を挟んで南側に三好氏の勝瑞館跡があったことが判明。複数の曲輪を持ち、幅10m〜15m、深さ3m〜3.5mもの大規模な濠によって区画されていたほか、前述のとおり枯山水庭園と池泉庭園もありました。2001(平成13)年に勝瑞城跡8,568.38u、勝瑞館跡33,246.96uが国史跡に指定され、「勝瑞城館跡」と呼称されています。
(撮影:裏辺金好 ※特記を除く)
○場所
○風景
休憩施設
復元土塁と矢竹
土塁は基底部幅約12m、高さ約2.5m、濠は上部幅約13mの大規模なものでした。
勝瑞義家碑 【藍住町指定有形文化財】
徳島藩の儒官で四国正学といわれた那波魯堂(1727〜89年)の撰で、戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を記した歴史的な記録。
三好氏三代の墓
南側の堀。 写真左手が勝瑞館跡ですが、写真を撮影していないのでこのページでは省略します。