飯山城〜長野県飯山市〜
○解説
飯山城の築城年は不明ですが、14世紀初頭に泉氏の居城であったものを、1564(永禄7)年に越後の戦国大名である上杉謙信が本格的に整備しました。東は千曲川に沿い、西は関田・斑尾の山地に囲まれた場所に位置する越後への軍事交通の要地であり、信濃を攻略する武田信玄へ対抗する狙いがありました。1582(天正10)年以降は、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝が領有し、飯山城を修築。1598(慶長3)年に上杉景勝が会津へ転封されたのちは、関一政、皆川広照(松平忠輝家臣)、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏と目まぐるしく城主が入れ替わり、1717(享保2)年に本多助芳が越後糸魚川藩より2万石で入封すると、明治維新に至るまで本多氏が領有しました。
さて、飯山城の構造は独立丘陵上を削りならして構築した平山城で、本丸、二の丸、三の丸を南北に連ね、その西側に西郭、外郭、帯郭を配し、外周を一重の堀を巡らせました。天守閣は無く、二重櫓を代用としました。また、1847(弘化4)年の善光寺地震で石垣や建物の多くが被災し、修復を余儀なくされたほか、1868(明治元)年に旧幕府軍衝鋒隊の攻撃を受け、城と城下町の多くが焼失しています(飯山戦争)。
明治維新後に城は破却され、石垣の一部を残すのみ。門の一部が移築され、このうち南大手門が信叟寺(長野市)の山門として現存するほか、飯山市内に移築された丸山家の長屋門が南中門跡に再移築されています(上写真)。なお、飯山城のどこに位置していたのか、または上級家臣の屋敷門であったかなど詳細は不明とのことです。
(写真:リン)
○場所
○風景
19世紀の絵図に見る飯山城の縄張
桜井戸跡
三の丸跡
二重櫓、武器蔵、籾蔵がありました。
二の丸跡
本丸枡形の石垣
本丸
葵神社が建立されています。
不明門跡
本丸の裏手にあり、江戸時代後期になると殆ど閉じられていたと考えられています。
信叟寺(長野市)の山門
飯山城大手門を移築したと云われます。
妙専寺(飯山市)の山門
飯山城不明門を移築したと云われます。