勝連城〜沖縄県うるま市〜
○解説
勝連城(かつれんぐすく)は、沖縄本島の中部勝連半島の根元に位置する標高約98mの丘陵上に築かれた東西に細長いグスクで、14世紀初頭に英祖王統2代・大成王の五男である勝連按司によって築城されたといわれます。この勝連按司の系統は5代続き、後継ぎの不在により6代目は伊波按司、7代目・8代目は浜川按司と続きますが、9代目の茂知附按司(もちづきあじ)は、酒におぼれ圧政を行ったことから阿麻和利(あまわり/?〜1458年)がクーデターを起こして打倒されます。勝連城を領有することになった阿麻和利は、海外貿易を進めて勢力を拡大。琉球王国の第6代国王の尚泰久は、護佐丸を中城城の按司に任じて阿麻和利を牽制する一方、阿麻和利に娘である百度踏揚(ももとふみあがり)を娶らせます。
すると阿麻和利は、護佐丸が反乱を計画していると尚泰久王に讒言し、これを討伐。しかし、阿麻和利自身も反乱を計画していると百度踏揚とその側近である大城賢雄(うふぐしくけんゆう)に密告され、1458年に大城賢雄率いる王府軍によって討伐されてしまいました。
勝連城は出土品の年代から、その後も何らかの形で使われたと考えられますが、歴史に表舞台からは姿を消し、戦後になって復元整備が進みます。
1972(昭和47)年5月15日に沖縄県の本土復帰と同時に国の史跡に指定。さらに2000年(平成12年)11月、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)されました。また、2017(平成29)年4月に続日本100名城(200番)に選定されています。
(写真:リン)
○場所
○風景
勝連城復元模型
勝連城は5つの曲輪から成ります。
三の曲輪城門跡
四の曲輪の長く細い石畳道を登った先にあった門で、四脚門であったといわれます。
三の曲輪
二の曲輪と舎殿跡
間口約17m、奥行き約14.5mの建物跡で、城内で最も重要な建物であったと思われます。出土品の状況から瓦葺の建物であったとも云われ、当時としては非常に珍しい建築でした。
ウミチムン(火の神)
三個のかまど石を意味する言葉で、琉球古来の信仰である火の神が祀られています。
一の曲輪階段
勝連城の最終防衛ラインで、敵が一気に進入できないよう、次第に細くなっているのが特徴です。
一の曲輪
玉ノミウヂ御嶽(うたき)
勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。