富岡城〜熊本県天草郡苓北町〜
○解説
富岡城は、関ヶ原の戦いで敗れた小西行長に代わって、天草郡4万2千石を与えられた唐津城主の寺沢広高が、1602(慶長7)年から1605(慶長10)年にかけて築城したもので、城代が置かれました。陸繋島の富岡半島上に位置しているのが特徴です。1637(寛永14)年、松倉勝家が領する島原藩において、重税とキリシタン迫害に耐えかねた領民が、旧領主であった有馬氏の家臣を中心に組織化され、天草四郎を盟主として反乱を起こします。これに、天草の領民も呼応し、寺沢堅高(寺沢広高の子)による圧政に対して決起します(島原・天草の乱)。
そして、一揆勢は富岡城代である三宅重利を討ち取り、富岡城に攻撃をかけますが、唐津藩の防戦により落城させることが出来ず、撤退。島原側と合流して原城へ立て籠もり、幕府軍の攻撃により反乱は鎮圧されました。
この乱後、寺沢堅高は天草の領地を没収され(後に自殺し、寺沢家は断絶)、備中国成羽藩から山崎家治が4万2000石で入封。山崎家治は築城の名手といわれ、富岡城を大規模に修築・拡張を行い、1641(寛永18)年に讃岐国丸亀藩5万3,000石に加増転封されます。
続いて、富岡城と天草の地は天領となり、代官を務めた鈴木重成が天草の復興に尽力。そして、1666(寛文4)年に戸田忠昌が三河田原藩から入封し、再び富岡藩が成立しますが、1670(寛文10)年に領民の負担を軽減するため、富岡城を破却し、三の丸を陣屋とした上で、関東に転封。以後は天領のまま、明治維新を迎えました。
2005(平成17)年に本丸に高麗門、櫓が絵図を元に復元され、櫓の1つは富岡ビジターセンターとして使用されています。また、2015(平成27)年に二の丸の角櫓、長屋等が復元されています。
(写真:リン)
○場所
○風景
二の丸石垣
島原・天草の乱の痕跡が残るとか。色の濃い部分でしょうか。
二の丸
二の丸に建立された、天草の復興に取り組んだ鈴木重成(天草の代官)と、鈴木重成の実兄で、政策顧問的な立場だった鈴木正三の銅像。鈴木重成は、天草の年貢半減を訴えて抗議の自殺をしたともいわれます。
二の丸に建立された、勝海舟と頼山陽の銅像。どちらも富岡の地を訪れたことがある縁で建てられたものです。
二の丸東角櫓
二の丸西角櫓
本丸高麗門など
熊本県富岡ビジターセンター