名古屋城〜愛知県名古屋市中区〜


○解説

 名古屋城は江戸幕府を開いた徳川家康が、豊臣秀頼ら大坂(大阪)方への備えとして、それまで尾張の中心であった清州城に代わって織田信長が誕生した那古野城(なごやじょう)の跡周辺に築城を開始したもの。1610(慶長15)年から建築が開始され、加藤清正・福島正則・前田利光(のち利常に改名)ら20ヶ国の大名が普請に参加しました。
 1616(元和2)年頃から1616(元和2)年にかけて、清州城下から寺社と家屋の大半が名古屋へ移転し、徳川家康の9男である徳川義直を藩主とする尾張藩が成立しました。明治維新後は東京鎮台第三分営(翌年に名古屋鎮台、のち第三師団)が城内に置かれますが、城内の建築の多くは保存されました。
 大天守は1612(慶長17)年に完成し、史上最大級の延床面積を誇った五層五階地下一階の建造物。城郭としては国宝第1号に指定されていますが、1945(昭和20)年に本丸御殿などとと共に空襲によって焼失しました。1954(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されています。
 本丸御殿は1615(慶長20)年に完成し、近世城郭御殿の最高傑作といわれる絢爛豪華な建築。城郭では天守閣とともに国宝第一号に指定されましたが、前述のとおり空襲で焼失。狩野貞信(かのうさだのぶ)や狩野探幽(かのうたんゆう)など狩野派による障壁画は別に保管されていたため焼失を免れ、2018(平成30)年に木造で復元され、障壁画などは当時の輝きを再現して復元模写されました。
(写真:裏辺金好)

○場所



○風景


本丸御殿復元前の名古屋城大天守・小天守。



名古屋城とその周辺の復元模型


外堀
現在は愛知県庁や名古屋市役所など、主に官公庁が建ち並ぶ三の丸の周囲にも外堀の多くが現存しています。


愛知県庁本庁舎 【国登録有形文化財】
1938(昭和13)年築。設計:西村好時、渡辺仁

名古屋市役所本庁舎 【国登録有形文化財】
1933(昭和8)年築。設計:平林金吾、名古屋市建築課


二の丸石垣

金シャチ横丁
江戸時代の町屋風の飲食店が整備されています。


二之丸大手二之門 【国指定重要文化財】
1612(慶長17)年頃築。高麗門形式で、築城当時の様子を今に伝えます。


正門
藩主や年寄職など一部の家臣しか出入りできない格式高い門で、元々は榎多御門(えのきだごもん)がありましたが、1891(明治24)年の濃尾大地震で大破。このため1910(明治43)年には旧江戸城内の蓮池御門を移築しますが、戦災で焼失したため、1959(昭和34)年に再建されました。

西南隅櫓 【国指定重要文化財】
1612(慶長17)年築。


東南隅櫓 【国指定重要文化財】
1612(慶長17)年築。三階東側の屋根の軒に、弓なりになった軒唐破風(のきからはふ)が装飾され、格式の高さを示しています。


西北隅櫓 【国指定重要文化財】
1619(元和5)年築。


乃木倉庫 【国登録有形文化財】
明治初期に建てられた煉瓦造りの旧陸軍の火薬庫で、西北隅櫓の近くにあります。角を石積み風に造り出しているのが特徴です。乃木希典が1872(明治5)年頃に名古屋に赴任したことにちなんで、後にこの名前で呼ばれるようになりました。

表二の門 【国指定重要文化財】
1612(慶長17)年頃築。


表一の門跡
元々は1612(慶長17)年頃に建築された櫓門がありました。表二の門から侵入した敵を、櫓門と多聞櫓の三方向から攻撃する構造でした。


旧二之丸東二之門 【国指定重要文化財】
1612(慶長17)年頃築。高麗門形式で、本来は東鉄門と呼ばれる二の丸東の枡形門の外門でした。愛知県体育館の建築に伴い、現在は本丸東二之門跡に移建されています。

清正石
本丸搦手枡形にある、名古屋城最大の石垣石材。黒田長政が工事を担当したエリアですが、巨石である故か、築城の名手といわれる加藤清正に因んだ清正石と呼ばれます。

不明門
1978(昭和53)年復元。本丸北側と御深井丸(おふけまる)をつなぐ門で、通常は施錠され厳重に管理されていました。


名古屋城天守閣
元々は1612(慶長17)年に完成したもので、五層五階地下一階の建造物。1945(昭和20)年に戦災で焼失し、鉄筋コンクリート造で再建されましたが、現在は耐震の問題で閉館中。今後は木造での復元計画もありますが、石垣の保護やバリアフリーの課題などがあり、議論が続けられています。

名古屋城小天守
名古屋城の天守閣は大天守と小天守をつないだ連結式層塔型です。

本丸御殿
 寛永期の姿に復元された本丸御殿。元々は1612(慶長17)年に建築が始まり、1615(慶長20)年に完成しました。当初は初代藩主、徳川義直の住まいでしたが1620(元和6)年に二之丸御殿へ住まいも政庁も移したため、将軍が上洛の際に宿泊する御成御殿(おなりごてん)として使われるようになります。特に、1633(寛永10)年に三代将軍・徳川家光の上洛に先立ち増築が開始され、翌年に上洛殿や湯殿書院(ゆどのしょいん)、黒木書院などが完成。狩野派の障壁画や、華美な飾金具も取り付けられています。
 それでは、ここから本丸御殿の内部を見ていきましょう。


玄関(車寄)
古くは遠侍(とおざむらい)と呼ばれた建物です。一之間(18畳)、二之間(28畳)の二部屋からなります。


玄関(一之間)


玄関(二之間)


玄関(大廊下)


表書院(三の間)
表書院は広間とも呼ばれ、藩主と来客や家臣との公的な謁見(えっけん)に用いられました。


表書院(二の間)

表書院(手前:一の間、奥:上段の間)

表書院(手前:一の間、奥:二の間)

表書院(上段の間)
上段の間は格天井が特徴です。


対面所(納戸二の間)
藩主と家臣の私的な対面や宴席に用いられました。

対面所(奥:上段の間、手前:次の間)
障壁画は、上段の間は京都、次の間は和歌山をモデルに四季の風物や名所が描かれています。


対面所(次の間)
紀三井寺や和歌浦天満宮、城下の賑わいなどが描かれています。

対面所(上段の間)
写真左は愛宕山、正面は賀茂競馬が描かれています。


対面所(上段の間)
上段の間には格天井が用いられ、黒漆塗りで天井板に金箔を押しています。さらに、中央部分を一段折り上げた「二重折上げ小組格天井」という豪華な仕様となっています。


鷺之廊下
鷺之廊下(さぎのろうか)は、1634(寛永11)年に上洛殿と共に増築。

梅の間
上洛殿とともに1634(寛永11)年に増築。将軍をもてなす役割に任じられた、尾張上級家臣の控えの間です。


上洛殿(三の間)
上洛殿は、三代将軍家光の上洛にあわせて増築された御成御殿(おなりごてん)です。部屋の境には極彩色(ごくさいしき)の彫刻欄間(らんま)がはめ込まれています。

上洛殿(二の間)


上洛殿(手前:一の間、奥:上段の間)



上洛殿(上段の間)
天井には板絵があります。


上御膳所(上の間・上段の間)
「御膳(ごぜん)仕立所(したてしょ)」が略された名称で、料理を調理し盛り付ける場所。長囲炉裏(ながいろり)で料理の温めなおしも出来ました。

下御膳所

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