2003年11月7日ほか 京王電鉄や豪徳寺などを撮影する
11月7日、夕方16時45分の池袋駅。普段通り帰ろうとしたら1番線にこんな色の電車が。元々、特急「あずさ」「かいじ」「あさま」等で活躍した189系のうち6両を、小山電車区に転属の上、日光をイメージした赤(二社一寺や神橋)と黄(キスゲや紅葉)を基調とした塗装に変更した「彩野」編成です。当時、快速「やすらぎの日光」として、新宿などから日光へ観光輸送を行っていました。2006年3月に大宮総合車両センターに転属し、東武100系「スペーシア」に準じた塗装に変更されています。
その後、253系1000番台が特急「日光」「きぬがわ」用となった際は、またこの塗装のような感じになっているのが面白いですね。
こちらはロゴマーク。
11月12日は、以前から「オススメ」と言われていた大手鉄道模型メーカーKATOのショールーム「ホビーセンターカトー東京店」へ。2014年に改築される前の姿です。
ホビーセンターカトーで保存されている京急デハ268。
11月12日は、営団地下鉄東西線の05系と、当時はデビューしたばかりのE231系800番台を中野駅で撮影。
11月15日は東京都日野市にある平山城址公園を散策。元々は、 源氏と平家による一ノ谷の合戦(1184年)において、熊谷直実と武勇を競った源氏方の侍大将の平山季重の居館の見張り台、つまり「砦」があった場所です。まだ遠くに人が出なかった昭和30年代は、行楽地として栄えましたが、今はただの住宅地近くのハイキングコース。それでも、春には桜が綺麗らしく、多くの人が訪れます。紅葉も、意外と綺麗でした。
麓に折りて、何となく撮影していた「ダイクマ」。神奈川県を中心にディスカウントストアを展開していた企業で、2002年にヤマダ電機が買収。2013年にヤマダ電機が吸収合併し、間もなく姿を消しています。
高幡不動駅近くでは、事業用車両となっていた京王5000系を撮影。
続いて11月16日は京王井の頭線に乗車。当時は3000系も多数活躍していました。
さらに明大前駅で京王線、下高井戸駅で東急世田谷線に乗り換えます。当時、パスネットが使えず、「せたまる」という独自のICカードを使用していたのが印象的でした(2012年9月にサービス終了)。そして、宮の坂駅で下車。
ここには、昔、世田谷線と江ノ島電鉄を走った電車が保存されていました。
この日の主目的は世田谷城跡と豪徳寺。世田谷城の領域は現在、井伊家菩提寺「豪徳寺」、住宅地、及び城の一部分が公園として存在。豪徳寺は、世田谷を領有していた彦根藩井伊家とつながりの深い寺院です。1480(文明12)年に世田谷城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の膨大を弔うために世田谷城内に創建したと云われる「弘徳院」を井伊家の江戸菩提寺と定めました。そして1659(万治2)年に第2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み、豪徳寺と改称され、世田谷城の領域の多くを活用し伽藍を整備しました。
上写真は仏殿で、1677(延宝5)年築。彦根藩2代藩主・井伊直孝の娘である掃雲院が、兄弟で彦根藩3代藩主・井伊直澄の菩提を弔うために建立したもの。当時流行した、黄檗様式の影響が随所にみられるほか、絵様肘木(えようひじき=唐草や渦などの文様を彫った肘木)など特異な様式が使われています。
桜田門外の変で殺された、大老・井伊直弼の墓(上写真)があったり、招き猫発祥の地と言われ、招き猫が沢山いました。
また、世田谷城はは南北朝時代〜戦国時代の城で、足利氏の一族である奥州(武蔵)吉良氏の居城でした。
築城されたのは、1366(貞治5)年、吉良治家・頼治の頃と言われ、吉良氏はその後、吉良頼康の頃には小田原の北条家と縁戚関係になりますが、1590(天正18)年の北条家滅亡と共に、この城も廃城となりました。なお、吉良氏自体は足利家庶流のため、 徳川家によって「高家」に列せられ、蒔田氏として存続した後、赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に「吉良」へ復姓しています。
さらに、東急世田谷線を挟んで南側に彦根藩の世田谷代官屋敷が残り、住宅主屋及び表門の2棟が国指定重要文化財に指定されています。
ここは、世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸かつ役宅。大名領の代官屋敷としては、都内唯一の現存例です。
大場家は、はじめ元宿(世田谷区役所のあたり)に屋敷を構えていましたが、1570年頃(天正年間の初め頃)に現在の場所に移され、現在の建物は7代の大場盛政が1838(元文2)年に建築したものです。1840(元文4)年、盛政は代官職に登用され、1753(宝暦4)年、役向専用に「書院座敷」を増築し、居宅部分にも改修を加えました。
帰路も京王3000系を撮影。
こちらは非リニューアル車。前面窓や側面帯が異なっています。
最後に、吉祥寺駅で京王3000系を撮影して〆としました。