2009年1月24日 掛川城ほか静岡県内の名所旧跡巡り


 職場の先輩の車に揺られて静岡県へ。私はただ座っているだけ(スミマセン。
 まずは東名高速道路の袋井インターチェンジを降りて、油山寺(ゆさんじ)へ。その途中、久野(くの)城址があったので遠景を撮影。1494(明応3)年、今川家の重臣である久野宗隆が築城したといわれる平山城です。ここから見ても解るとおり、よく整備されているのがいいですね。
 久野氏は桶狭間の戦い以後、久野宗能が徳川家康に仕え、家康の関東移封により下総佐倉へ。代わりに久野城は松下之綱、松下重綱が領有し、さらに関が原の戦い後に久野宗能が城主として復帰。そして、久野宗成、北条氏重と続いて1644(正保元)年に廃城となりました。

 続いて袋井市内の油山寺へ。行基が開いたとも伝わる由緒ある寺院で、 孝謙天皇が眼病平癒を祈願して、この寺にある「るりの滝」で洗顔したところ全快。このため、眼病平癒のお寺として名高い寺院です。また古建築が非常に多く、写真右手の三重塔は1611(慶長16)年築の国指定重要文化財。

 ちなみに山門は掛川城の大手二之門を移築したもので、1659(万治2)年、掛川藩主の井伊直好が創建したものです。

 続いて同じく袋井市内にある曹洞宗の寺院、可睡斎(かすいさい)へ。幼い頃の徳川家康が、戦乱のさなかに仙麟等膳和尚によって保護されたことがある寺院。後に仙麟等膳和尚は、浜松城主となった家康に「恩を返したい」と招かれますが、ここで居眠りをしてしまいます。普通なら無礼者!というところでしょうが、家康は和尚の安らかな顔を見て、むしろ親愛の念を抱き、「和尚、和尚 、眠る可(べ)し」と居眠りを許可。これ以後和尚さんは、「可睡和尚」と呼ばれ、さらに寺の名前も本来は東陽軒であったのが、現在の可睡斎に変わりました。
 こちらも見るべき建築は色々あり、上写真の本堂は享保年間(1716〜36年)の建築です。

 さらに今度は車を南に、横須賀城址(静岡県掛川市横須賀)へ。これは徳川家康が大須賀康高に命じて築城させたもので、武田勝頼が手に入れた高天神城へ対抗するのが目的でした。関が原の戦い後は近世城郭として整備され、様々な大名家が城主となりますが、1682年に西尾忠成が城主となってからは西尾氏が幕末まで領有しました。
 建築は何一つ残っていませんが、本丸とその周辺の縄張りがよく残り、整備も次第に進んでいます。

 そして、その高天神城へ。難攻不落といわれる城ですが、意外と大きい城ではありません。
 創建は諸説あって不明ですが、今川氏時代には小笠原氏が城主を務め、桶狭間の戦い後は徳川氏の家臣になります。そして1571(元亀2)年に武田信玄の攻撃を受けますが、これを撤退させます。しかし、1574(天正2)年に武田勝頼の攻撃にり落城。城は武田氏のものとなり岡部元信が城主に。
 そこで徳川家康は、先ほどの横須賀城の築城などにより奪還準備を進め、1581(天正9)年に再攻略に成功。岡部元信らは討ち死にし、高天神城は廃城となりました。

 続いて掛川市中心部へ行き、久しぶりに掛川城へ。2003年9月に訪問して以来で、しかも当時は曇り空で大した写真にならず残念でしたが、今回は見事に晴れてくれました。関が原の戦いの前には山内一豊が城主を務めて、現在見られる掛川城の基本を造ったことでも有名で、天守閣内部では18代目当主の山内豊秋氏が寄贈した鎧などが展示。山内家が未だに掛川との縁を大事にされていることに、感動しました。

 掛川はもちろん東海道の宿場町としても栄えた場所。写真左手が本陣があった場所と推定されています。
 残念ながら、今でも商店街として残ってはいるものの、衰退の一途をたどっているようです。また、周囲は区画整理が大幅に行われており、江戸時代の町割りは姿を消しています。

 掛川城の東側には、大日本報徳社という二宮尊徳の報徳思想を広める全国の報徳社の最上位組織で、1898(明治31)年に掛川市出身で二宮尊徳の弟子であった岡田佐平治が設立しました(現在でも社団法人として活動しています)。写真の大講堂は1903(明治36)年の建築で、組織が出来上がった頃の雰囲気を今に伝えています。

 さらに東へ行くと、龍華院大猷院霊屋というのがあります。これは1656(明暦2)年、掛川藩主の北条氏重が徳川家光を祀るために建てさせたものを起源とし、現在の建物は1818(文化15)年の火災による焼失後、1822(文政5)年に掛川藩主の太田資始により再建されたものです。
 ちなみに、この場所は16世紀初頭に今川氏親が、重臣の朝比奈泰煕に造らせた掛川城本曲輪があった場所だそうです。

 さて、掛川城から東へ車を走らせて事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)へ。創建年代は明らかではありませんが、坂上田村麻呂が現在地に遷座させたという歴史を持つ由緒ある神社で、「ことのまま」とは「願い事が意のままに叶う」という意味だとか。縁起がよく、そして東海道沿いにあるので古来より多くの参拝者が訪れています。
 願い事が意のままに叶う・・・そうねえ、結婚したいですね〜。こんなこと、やってられなくなりますけど。

 では次の目的地へ・・・と思いきや、何とここは東海道の日坂宿(にっさかしゅく) があった場所。難所である小夜の中山の西麓に広がる宿場町で、きっと多くの方々がここで疲れを癒したことでしょう。JR東海道本線がここを通らなかったため、全く発展しませんでしたが、そのおかげでご覧の通り古い建築がいくつか残っており、見学することが出来ます。
 上写真は日坂宿最後の問屋役を務めた商家、藤文で、建物は江戸末期に建てられました。1871(明治4)年の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を設置。つまり、現存する最古の郵便局の1つとしても非常に貴重な建物です。また日坂宿は、建てかえられた住宅も往時の屋号を玄関に掲げており、東海道の宿場町だった頃の雰囲気を再現しています。

 日坂は1955(昭和30)年に合併で掛川市となりましたが、マンホールの蓋も日坂オリジナルデザイン。ご覧の通り、江戸時代の東海道を行く人を再現したもので、気合が入っています。日坂宿、恐るべし。

 続いて藤枝市内に入り、志太郡衙(しだぐんが)跡へ。ここは1977(昭和52)年に住宅を造成する際に発掘された、奈良時代から平安時代の郡役所。掘立柱建物10棟、門(2箇所)、板塀、井戸、道路の跡が確認され、幸いにもこれを破壊することなく整備が行われました。国府を復元整備する例は多少ありますが、郡衙をここまで大規模に復元展示するというのは非常に珍しい。当時の行政組織を知るうえで、非常に貴重な場所です。

 ちなみに、現地の案内板によると志太郡衙は古墳にほぼ隣接して建てられている模様。「古墳」としか書かれていませんでしたが、ネットで見ると南新屋古墳としているものも。

 それから旧東海道の藤枝宿。商店街となっており、当時を偲ばせるものは常夜灯などごく一部。商店街としては掛川よりは活気がありましたが、それでも・・・な状態でした。こういう中心市街地、活性化はどうしたものでしょうか。

 話が変わってしまいましたが、さらにこの地域を治めた田中藩の中心である田中城へ。もともとは今川氏が築城したものですが、武田信玄が占領してから、世にも珍しい本丸を中心に、同心円状に3重に堀を巡らす、円形の縄張りを持つ城。残念ながら、宅地開発や小学校・中学校の建設で遺構の多くは失われてしまっています。
 その中で、田中城の南東隅に設けられた田中城下屋敷跡には、田中城本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩という田中城の遺構と、長楽寺村郷蔵が移築復元されています。

 そして焼津さかなセンターで寿司を食べて、東名高速道路の富士川サービスエリアへ。富士山が絶景!
 夕方だったので、多少暗い写真にはなってしまいましたが、満足満足。元々が西日本の人間だからでしょうか、もう何度も見ているにもかかわらず、富士山を見ると興奮してしまいます。

 さて、職場の先輩は箱根在住のため、箱根湯本駅で降ろしてもらいます。
 そうです、今日の旅行は鉄分が足りないので少し補給しておく必要が・・・(笑)。というわけで、まっすぐ帰ればいいものを、箱根湯本駅で撮影タイム。まずは小田急ロマンスカー50000形VSE。

 続いて箱根登山鉄道2000系。

 そして、ひそかに期待していたのですが箱根登山鉄道1000系リバイバル塗装。登場時の塗装で、小田急ロマンスカー3000形SE、3100形NSEにイメージを合わせたものです。さあ、これで大満足。家に帰ることにしましょう。

 ・・・と思ったら、途中で「ある」車両とすれ違ったので、予定を変更して小田原駅でしばらく待機。とりあえず小田急ロマンスカー30000形EXEを撮影。

 それから小田急5000系。

 そして目当てはこちら、小田急ロマンスカー7000形LSEによる特急「はこね」です。特急「ホームウェイ」としては、日曜日に相模大野から藤沢へ行くのに、何度も遭遇しておりますが、「はこね」としては今までに1回しか遭遇したことが無く、これは嬉しい限り。それにしても、2008年3月までの期間限定だったような気がしますが、未だに運用中なんですね。

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