2009年11月1日 小石川薬草園と京成電鉄へ
所長が休日だからって、旅行に行かないからって、じっとしていると思うと大間違いだ!
というわけで、本日のスタートは御茶ノ水にあるニコライ堂から。正しくは東京復活大聖堂という正教会の教会で、ジョサイア・コンドルが実施設計を行い、関東大震災による被災後、1927年から1929年にかけて岡田信一郎が補強と修復を行ったもの。何度も見ていますが、なかなか大きい。ビザンティン様式の教会建築で、なんだか日本ではないような光景です。
そのすぐ近くにある坂が「幽霊坂」。都内にはほかにも同名の坂があるようですが、墓が多かった場所なのでしょうか。果たしてその由来とは?こういうの、調べてみると面白いんでしょうね。
そして駅舎図鑑用に久しぶりに御茶ノ水駅周辺をウロウロ。聖橋と東京メトロ丸の内線、そしてJR中央線の組み合わせ。
続いて東京メトロ丸の内線に乗り換え茗荷谷駅で下車。北に向けて歩き出すと、そこにあるのが湯立坂。「タモリのTOKYO坂道美学入門」(講談社)にて最高評点が与えられた場所だそうで・・・。
ここにあるのが、(財)大谷美術館理事長、大谷利勝さんが所有する国の重要文化財、旧磯野邸。元々は千葉の山林王と呼ばれた実業家、磯野敬氏が1912(大正元)年に建てた住宅で、耐震性、防火性を重視した構造で、銅板葺の屋根、銅板張の外壁から銅御殿との愛称で親しまれています。通常は非公開で、どうやら先週の土曜日に特別公開が行われていたそうです。シマッタ・・・。
ところで、この背後で野村不動産による高層マンション建設が行われており、湯立坂の景観はぶち壊し、地盤も大幅に改編するわ、強いビル風は発生する危険性はあるわで、銅御殿がこのまま建っていられるかが危険視され、反対運動が発生していますが、問答無用で工事は進んでいるようです。
如何せん交通の便も良い都内でも有数の物件であるだけに、どうしても開発の手が伸びてしまうのは仕方の無いこととは思いますが、イマイチ釈然としません。
そして小石川薬草園へ。江戸幕府のころから続く由緒正しい薬草園自体も素晴らしいのですが、日本史の原稿用としても是非見ておきたかったのが旧東京医学校本館。1876(明治9)年の建築で、国の重要文化財。東京医学校は1877(明治10)年4月に東京開成学校と合併したことにより、東京大学医学部となり現在に至っています。
この建物自体は1911(明治44)年に赤門脇へ移築され、規模の縮小などが行われ、さらに1969(昭和44)年に現在地に移築されますが、創建時の雰囲気は良くとどめているそうで、日本で本格的な医学教育を目指した人たちの思いと共に、現在に伝わっていることは素晴らしい限りです。
内部は科学系の展示になっており、様々な動物の剥製や骨格などが展示。綺麗に並べられていますが、解説は殆ど無いため、暗い時に来ると、ちょっと不気味・・・。
それ以外にも顕微鏡など実験器具も多数展示されていますが、こちらも解説は全くありません。ある意味で斬新な展示方法であり、面白いような・・・やっぱり解説が無いと何のことか解らんような・・・。
実は東京医学校本館の内部への入口と、小石川薬草園の入口は同じ敷地内ながら、それぞれ園内の東西に分かれており、別々に入らないと見られない仕組み。東京医学校本館は入場無料でしたが、小石川薬草園は入口向かい側の(昔ながらの?)タバコ屋で入場券を購入する仕組み。半ば予想していましたが非常に愛想の無い対応で、まあ・・・これも町歩きの楽しさと考えれば一興?
こちらの井戸は、町医師である小川笙船が目安箱に意見を投書し、これを見た8代将軍の徳川吉宗が小石川薬園(薬草園の当時の名称)の中に実現させた旧小石川養生所のもの。
小石川養生所は、貧しい人のための無料の医療施設として幕末まで存続し、この井戸は水質が良くて水が豊富なことから、大いに使われたようです。関東大震災の時にも、この場所には多くの人が避難しているため、この時にも飲料水として大いに役立ったそうです。
こちらは甘藷試作跡の記念碑。やはり徳川吉宗のころ、青木昆陽がサツマイモ(甘藷)の栽培をここで試作したことを記念して、普及に成功。1921(大正10)年に、この記念碑が建てられました。
小石川薬草園は、基本的には1本1本異なるといってよいほど、様々な樹木や草花が植えられており、よく言えばバリエーション豊かな(植物の見本市のような感じで、一見の価値あり!)、悪く言えば統一感の無い雑然とした雰囲気ですが、日本庭園は非常に手入れされた素晴らしいもの。昨日の小石川後楽園に引き続き、大変目の保養になりました。
この後、すぐ近くにある陸奥守山藩(水戸藩の徳川光圀の弟を祖する藩)の上屋敷、中屋敷の庭園であった占春園の跡地(現在は筑波大学附属小学校の自然観察園)を見学。江戸三名園の1つだったそうですが・・・今は現在の使用目的のとおり、自然豊かな情景に。
さらに日暮里駅に移動し、右手に見えますように京成電鉄の重層化工事の完了後を見学。
変貌著しい日暮里駅周辺。かつての駄菓子問屋街も、すっかり再開発されていました。
そして京成電鉄の下り新ホーム。特急「スカイライナー」と一般列車とは乗降するホームが分けられています。また、御覧のようにドーム型の屋根がかけられた特徴ある構造になっています。
京成電鉄に乗車して高砂駅で少しだけ撮影。こちらは都営地下鉄5300形。京急線でも京成線でも幅広い範囲で活躍し、神奈川県横須賀市から千葉県成田市まで、東京都のマークをPRしまくっています(笑)。
北総鉄道9000形。
京成金町線の3500形。種別表示を板で表示する未更新車です。
続いて船橋競馬場駅でAE100形などを撮影。普段、あまり京成電鉄を撮影することが無いので良い機会になりました。
さらに京成津田沼駅で京成千葉線に乗り換え。乗車したのは新京成電鉄の8800形。新京成電鉄は滅多に撮影することが無いので、これまた良い機会に・・・。そして、京成稲毛駅で下車します。
そして稲毛浅間神社の南東にある、旧神谷伝兵衛稲毛別荘を見学。
1918(大正7)年に完成したもので、1階が洋室・・・。
階段を上ると2階は和室という、上下で全く異なる様子になっているのが特徴。神谷伝兵衛は、浅草に今も残る神谷バーの前身の「みかはや銘酒店」を創業し、茨城県牛久市のシャトーカミヤに代表されるように、ワイン製造業で成功した実業家。この2階は、床柱にブドウの巨木を使い、天井を竹格子で組むことで、部屋全体をブドウ棚に見立てているのが特徴です。
さらに稲毛浅間神社の南西には、「千葉市ゆかりの家・いなげ」として、愛新覚羅溥傑・嵯峨浩夫妻が新婚時代である1937(昭和12)年に半年ほど居を構えた家が保存されていました。今回全くノーマークの史跡であり、現地に行って、まさかそんな場所があったとは!と驚き。
愛新覚羅溥傑は、中国清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の実弟。まさか、こんな普通の日本家屋に新婚時代に住んでいたとは思いませんでした。ただ、この場所の周辺自体は今のように埋め立てられ、マンションが並ぶ光景ではなく、当時は海岸沿いの風光明媚な場所で、別荘地として人気だった場所だそうで、風流な新婚生活だったことでしょう。・・・多分。
現在でも例えば昨年の6月に溥傑の次女(漢字変換が出来ない・・・)と孫の方が訪問するなど、つながりがあるようです。
そして京成稲毛駅に戻ると・・・。おおっ!京成3300形のリバイバルカラー(赤電塗装)が!! 密かな今日の目的であっただけに、これは非常に嬉しい限り。
こちらは新京成電鉄のN800形。
そして京成津田沼駅で下車し、近くの留置線にいた3300形リバイバルカラー(ファイアーオレンジ塗装)を踏切から撮影。これで残るリバイバルカラーは青電塗装のみ。しかし、撮影する機会は訪れるのでしょうか・・・??
そんなわけで、全く休めない土日を過ごした所長。11月3日も休日という有り難い日ですが、デュークさんと埼玉県入間市で開かれる入間航空祭に朝から出かけてくるため、結局は休めず・・・。正直、休日はゴロゴロするのが理想ではありますが、いざ休日を迎えると、よほど疲れていないとソワソワしだして、どこかに行ってしまいます・・・。