2013年5月4日・5日 富岡製糸場と足尾銅山へ

〇5月4日


ゴールデンウィーク後半戦2日目。まずは氷川副所長、水澄所員、ゼニガタ所員と高崎へ向かいます。・・・が、当初は在来線で向かうつもりが、京浜東北線に乗車したところ人身事故でストップ。そこで山手線に乗り換えたところ、中央線の新宿駅で人身事故が発生したとのことで、巻き添えを喰らってストップ。 ・・・幸い、この段階で神田駅にいたため、たまたま東京駅まで運転していた中央線に乗り換え、新幹線で高崎へ行きましたとさ。やれやれ。 さて、高崎駅に着くとSLみなかみ用の12系を牽引してきた茶色いDE10に出会います。

続いて485系快速「リゾートやまどり藤祭り」号を撮影。

さらに数少なくなった211系高崎線を撮影。結局これ、いつまで残るのでしょうか?

さらに八高線に乗車して群馬藤岡駅へ。

なかなか趣のある駅舎。1931(昭和6)年の開業時から使用されているようです。・・・で、私の計画では藤岡市にくる予定は無かったのですが、誰かさんのレンタカー手配場所の手違いで、こんなことに・・・。

そして向かった先は、富岡市の富岡製糸場へ。2006年1月以来の訪問ですが、人が多い・・・。駐車場も満杯状態で、やむを得ずゼニガタ所員に車を預けて、残る3人で訪問することにします。

富岡製糸場がすごいのは、1872(明治5)年に明治政府が官営工場として建設させた当時の主要な建造物が未だに残存していること。明治維新後、すぐにこのような近代的な洋風工場を完成させた、当時の人たちの意気込みには恐れ入ります。

もちろん内部の機械は時代と共に変化していますが、建物は明治時代のまま。ちなみに富岡製糸場は、1893(明治26)年に三井家へ払い下げ、1902(明治35)年に横浜の生糸商原合名会社(三溪園でお馴染みの原富太郎の会社)へ譲渡。

さらに、1939(昭和14)年、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となり、1987(昭和62)年3月5日まで、約115年間操業を続けていました。比較的最近まで、稼動していたのですね。

さて、高崎に戻って夜勤明けの馬藤所員と合流。高速道路で、水上を目指します。

水上といえば、SLですね!ちょうど、復路の列車運転のために、展示線から転線中のC61がいたので、撮影しました。

SL世代ではないので、SLにはそこまで強い思い入れは無いのですが、そうは言ってもこのような雰囲気を見ますと、迫力は格別だと感じます。

さらに水上の奥、宝川温泉 汪泉閣で1泊します。この川沿いに広大な露天風呂が広がっており、実に絶景でした。しかも源泉掛け流し。これは、もう一度行ってみたいですねえ。 この日の行程はこれだけ。日ごろ、いかに予定を詰め込むか・・・状態の私の旅行ですが、今回は温泉がメインだったので、これにて終了と相成りました。

〇5月5日


この日は宝川温泉を出て、水上・沼田経由で日光市足尾へ向かうことに。途中、茅葺屋根の立派な民家が見えてきたので、ゼニガタ所員にお願いして立ち寄ってもらうことにします。

これは沼田市南郷の曲屋(旧鈴木家住宅)。沼田市指定重要文化財で、関東地方には珍しく、一方で東北地方の民家でポピュラーな曲屋(まがりや)形式と呼ばれる、L字型の古民家です。写真右側手前には、「厩(うまや)」があって、神経質な馬の健康状態を、家の中から常に把握出来る様にしています。

内部は天井が非常に高く、立派なもの。展示されていた古写真を見ると、多くの人でにぎわった沼田市南郷地区の集落も、往時に比べると過疎化が進んでいるようですが、この旧鈴木家住宅は過去の繁栄を後世に語り継いでいくことでしょう。

そして、わたらせ渓谷鐵道の神戸(こうど)駅にやってまいりました。鉄道ファンとしては、本来であれば乗車して収益に貢献したいところではあるのですが、鉄道だと宝川温泉からここまでたどり着くだけで1日仕事のため、大変申し訳ない。 それにしても、昔ながらのただ住まいといった感じで、ノスタルジーを感じますね。

しかし、ただノスタルジーがあるだけではありません。ここは、東武鉄道日光線を走っていた東武1720系「デラックスロマンスカー」の中間車を利用したレストラン「清流」が営業しているのです。

2007(平成19)年に来たときには、独自の塗装に塗られていましたが・・・。

2011(平成23)年1月に東武時代の塗装に復元され、大変美麗な状態になっています。これといって退色や錆等も出ていないので、これは相当丁寧に管理されているようですね。頼もしい限りです。

跨線橋からも1枚。いやあ、絶景ですな。

続いて足尾駅に到着して、わ89−310形を撮影。

さらに偶然にもトロッコわたらせ渓谷号がやってきたので、これも有難くゲットします。・・・うう、乗りたい!!

さらに構内では、キハ35形と・・・。

キハ30形が保存されています。ツートンカラーと首都圏色、両方楽しめるのが良いですね。

さらに、タキも保存されていました。

そして昼飯を食べたあと、足尾銅山観光へ向かいます。かつての坑道を走っていたトロッコに乗って、いざ内部へ。

・・・と言っても、総延長1200kmともいわれる、気の遠くなるほど広大な坑道のうち、我々が移動できるのは全長700mのみ。

前に来たときにも思いましたが、この先がどうなっているのか、所長さんとしては気になるのでございます。管理者サイドでも、どの程度現況を把握しているのでしょうね?

さて、一般の観光客は横の坑道にそれて、江戸から昭和までの採掘作業を、リアルな人形とともに体感することになります。

人形の出来が非常によくて、迫力があります。

昭和になると掘削機械も近代化されましたが、狭く暗い坑道の中で、大変な作業であったと思います。足尾には、鉱員さんたちの住宅も数多く残っており、前回の訪問から6年が経った今回でも、これと言って変化は見られませんでした(※足尾銅山観光周辺では綺麗な住宅も建ち並んでいましたが)。

足尾は鉱毒問題もあり、負の側面もどうしても付きまといますが、そういった事象も踏まえたうえで、今残っている産業遺産を丸ごと活用できると理想的ですね。

どういった場所に住んで、どういったところで働いていたのか、全部が今も体感できるって、凄いことだと思います。

ちなみに今回は撮影しなかったので、6年前の写真から。また改めて、足尾全体を散策してみたいものです。

続いて沢入(そうり)駅で、わたらせ渓谷鐵道の新型トロッコ列車「トロッコわっしー号」を撮影します。

「トロッコわたらせ渓谷号」と異なり、新造車両。ディーゼル機関車も不要なので、機回しが無いので全区間での運行が可能であるのが特徴です。それでも「トロッコわたらせ渓谷号」が引退しないのは、それだけトロッコの需要が旺盛のようです。

当初予定では、このぐらいで終了・・・だったのですが、来る途中に大間々駅前にコノドント館という博物館があることを思い出し、閉館ギリギリに向かうことに。

建物は大正10年に建築された旧大間々銀行の営業所本館と倉庫を活用。

コンドントというのは、これ。詳しくはそのうち、馬藤所員にタップリと解説してもらいますが、博物館ホームページによると 「みどり市大間々町在住の研究者・林信悟氏によって、日本で最初に発見された古生物化石「コノドント」。長いあいだ正体不明の化石でしたが、この1ミリにも満たない微小な化石が、近年になって最初の魚類の歯であることが分かり、脊椎動物の始原をさぐるうえで重要な化石として研究者の注目を集めています。」 とのこと。

こんな感じの生物だったそうな。う〜ん、ユニーク。

また、165系の運転台がありました。座ることも出来ますので、これは鉄道ファンには嬉しい展示。出来れば、もう少し保存部分が欲しかった・・・。

また、郷土資料も充実。こちらは平安時代から戦国時代まで使われた、高津戸城の復元模型。

また、ユニークなのは100円ショップのさきがけ、10銭均一店の経営法なんて本が。

昔からこういうのを思いつく人はいたのですね。

また、企画展としてバブル期の家電が展示されていました。

とうとうこの時代も博物館入りか・・・と思うと複雑な気分ですが、たしかに展示されるだけあって、不思議なデザインが多いです。これで電子レンジとは。

これは炊飯器。

これはポータブルテレビだったか。 今は板のようなタブレットでインターネットもテレビ電話も出来てしまうのですから、恐ろしい時代です。携帯電話が出たときぐらいまでは、本質的な部分で昭和の頃と何が違うのか?という気がしていましたが、いよいよ子供の頃に本で読んでいた未来の社会が現実になりつつある気がします。 あとは車が空を飛んだらすごいですねえ。

続いて大間々駅構内で立派な施設が建設されて保存された、わ89−101号を撮影。

そして太田駅で東武200系を撮影し、この日の撮影を終了。ゼニガタ所員はこのまま京都までお帰りになり、馬藤所員も自宅へ帰還。氷川副所長、水澄所員は我が家で一泊の上、翌日に帰還されました。

その後、GW中に何とか耐えた風邪が見事にトドメを私に刺してくれまして、悲惨なことになったのは内緒の話。こんなに風邪が長引いたのは初めてのことです。もう若くないのかしら。

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