2015年6月13日 伊豆の史跡を巡る旅
この日は職場の同僚であるMr.S氏とMr.K氏と共に車で静岡県へ。最近、2ヶ月に1回ペースで近隣の史跡を巡っているのですが、今回は伊豆地方にターゲットを当ててみました。 まずは三島市にあり、国道1号線(東海道)を挟むように築城された山中城という後北条氏が築城した戦国時代の山城を見ます。 既にホームページで紹介していますが、ここの最大の魅力は畝堀。
さらには障子堀。
堀をV字型に切るとか、U字型に切るとか、そういう分類ぐらいは見たことがありますが、このように堀の中に幾つも仕切りがあるのは珍しい。
なかなか防御力が高そうな城なのですが、豊臣秀吉による小田原侵攻に際しては、圧倒的な大軍を前にあっという間に落城しました。流石に数には勝てなかったようです。多くの兵士たちがここで散ったかと思うと、少々ゾッとしますね。
国道1号線を挟んだように建築されていますが、これは実際に豊臣秀吉と戦う前に、東海道を挟む形で出城部分として拡張したため。ここにも見事な畝堀が存在しており、見事なものです。
続いて三島市街に入り、三嶋大社脇にあるこちらの店へ。丸平商店店舗という国の登録有形文化財を改装した料理屋です。
食べるのは当然ウナギ! もう口の中が幸せな美味しさでしたが、お財布の中は不機嫌な状態に。とは言え、ここで中途半端にケチって微妙なものを食べるわけには・・・。
今思い出しても絶品だったウナギを堪能した後は、隣にある三嶋大社を参拝。幕末に建てられた社殿が今も現存し、風格が漂っています。
保護されているのでちょっと見えにくいですが、拝殿を彩る彫刻の美しさは格別。でも、これでは何の彫刻か分かりませんね。
さて、ここから場所を少々変えまして伊豆の国市韮山にある江川邸へ。国の重要文化財に指定されているこの場所は、江戸時代は幕府直轄地を支配するために設置された韮山代官所として使われ、この代官職を代々、江川家が務めてきました。
特に有名なのが第36代当主の江川英龍で、幕末に西洋術砲術に着目し、先日世界遺産に登録された韮山反射炉の工事に着手したほか、パン(堅パン)に注目し、日本で初めてパンを焼いたことから、パン祖と呼ばれているそうな。
というわけで敷地内にあるパン祖の碑。堅パンということで、軍隊の携行保存食として注目したそうです。
屋敷の内部はこのとおり。広い土間が特徴的です。基本は1600年頃に建てられたものですが、部分的にはもっと古い部材を流用していたり、江戸時代後期には、江川英龍の父・江川英毅により、玄関部分の改築や書院の整備が行われています。
今も江川家が居住されているので、公開範囲は少ないですが、何しろ江川家は清和源氏の源経基の孫である、源頼親の子孫。源頼朝の挙兵を助けて、江川荘を与えられて以来、ずっとここにいらっしゃるわけなので、鎌倉時代から今に至るまで、同じ家がこの地域で存続しているというのには、驚くほかありません。
また、明治25年に建築された米蔵も現存しています。
さて、江川邸を見たならば韮山反射炉を見なければいけません。金属を溶かし大砲を鋳造する炉のことで、実際に使われたものが現存するのはここだけ。長崎を通じて手に入れたオランダの大砲鋳造法を翻訳して、設計したそうです。 世界遺産に登録される直前だったこともあり、かなりの人が訪れていました。
こちらが操業当時の想定CG。今は鉄骨で反射炉が補強されていますが、当時はそんなことはなく、レンガの上に漆喰を塗りこめた白い塔だったそうです。
こちらが鋳造された大砲でしょうか。
韮山反射炉の近くは、歴史の偶然と申しますか源頼朝が配流された場所。これを記念して、蛭が島公園が整備され、源頼朝と北条政子の像が建立されています。実際に源頼朝がここにあったかどうかは不明ですが、この辺りにはいたんですね。
公園の一角には古民家が移築されています。これは、旧上野家住宅という静岡県指定有形文化財で、江戸時代中期に建てられた農家住宅です。現在は市歴史民俗資料館として使われているそうですが、この日は開館していませんでした。
続いて蛭が島公園から西へ。伊豆箱根鉄道駿豆線の線路を渡り、成福寺へ行きます。こちらは北条時政が、源頼朝・北条政子の新居として与えた場所。 そして、鎌倉幕府第八代執権北条時宗の第3子である北条正宗が、鎌倉幕府が滅亡した1333年(正慶2年/元弘3年)に北条一族の菩提を弔うために、一宇を開創。さらに北条正宗の長子、北条宗仁がこれを修造して成福寺を建立しました。
さらに戦国時代には韮山を支配した北条早雲や、その孫の北条氏康の庇護を受け、後北条氏滅亡後も北条家が住職を務めています。
その隣にある広い敷地も、元々は北条時政の屋敷跡だったそうなのですが、戦国時代には将軍の足利義政が、同じ一族ながら言うことを聞かない古河公方に対抗するため、弟の足利政知を伊豆に配置(本来は鎌倉公方として鎌倉に派遣を試みますが、力が弱く実現せず)。この際に居館として堀越御所をここに造ったそうです。 当時は北条時政の屋敷跡が再利用できるような基盤が残っていたのでしょうか。歴史は面白いですね〜。
そのため、向かい側には北条政子産湯の井戸が残ります。これはただの石碑で、実際にはその奥にありまして・・・。
こちらが、その井戸だそうです。
その近くにある広い敷地は、国指定史跡・北条氏館跡(円成寺跡)。北条氏の本拠地だった場所で、鎌倉幕府滅亡後に北条一族の女性たちが、一族の菩提を弔うために円成寺を建立しました。
続いて江川邸近くに戻り、源頼朝が挙兵した際に最初に血祭りに遭ってしまった、山木判官・平兼隆の屋敷跡へ。と言っても、往時を偲ばせるものは何もなく、この看板1枚が精一杯・・・。 ちなみに平兼隆は、北条時政が源頼朝と付き合いだした北条政子を引き離して結婚させようとした相手で、破談になった挙句に、源頼朝の格好の獲物になってしまったと意味で、何とも哀れな感じです。
最後に、江川邸の裏側にある韮山城へ。築城年代ははっきりしませんが、文明年間(1469年〜1486年)に堀越公方の足利政知の家臣である外山豊前守が拠点とした後、北条早雲が奪取。北条早雲は没するまで、ここを拠点に後北条氏の勢力を拡大していきました。
後北条氏が滅亡した後は、徳川家が領有しますが関ヶ原の戦い後に廃城。以後は、江川家が管理していたそうです。
そしてここから、蛭ヶ小島方向がよく見えます。平安時代末期から幕末まで、韮山の地は様々な歴史ドラマが繰り広げられてきました。歴史上の様々な有名人が、ここで人生の転機を迎えたかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。