2018年4月1日 前橋市の総社古墳群を堪能する


この日は職場の同僚、Mr.SとMr.Kのトリオで群馬県前橋市へ。群馬総社駅でレンタサイクルを借りて、総社古墳群を見に行きます。 まずは元景寺へ。ここは曹洞宗の寺院で、 総社藩初代藩主の秋元長朝が父の元景(景朝)の菩提を弔うために建立したものです。



つづいて遠見山古墳【前橋市指定史跡】へ。 形状は前方後円墳で、5世紀後半頃の造営と推定されています。 墳丘の長さは約70mで、江戸時代には総社城の城内に取り込まれ、櫓が置かれたことからこの名前が付けられています。ちなみに総社城は江戸時代初期に廃城となっており、遺構は殆どありませんでした。

続いて何を血迷ったか、総社古墳群の散策を一休みして利根川を渡って前橋市の中心部へ。群馬県庁付近へ到着し、臨江閣を見ます。 写真右手の本館及び茶室は1884(明治17)年築。群馬県令の楫取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により、迎賓館として建築したものです。 さらに写真左手の別館は1910(明治43)年築。前橋市で開催された1府14県連合共進会の貴賓館として建てられたものです。

さて、この辺りの敷地は前橋城があったところ。それほど遺構が残っているわけではないのですが、辛うじて県庁の周囲に土塁が多少残っています。

また、今回初めて車橋門跡の石垣を見ます。 これは外曲輪から城内に至る重要な門。酒井忠清が藩主だった時代(1637〜81年)に冠木門から渡櫓門に改築されました。前橋城の貴重な遺構ですが、1964(昭和39)年の土地区画整理事業に伴い、西側の台石が東へ8m移動しており、当時の規模とは違ったものに・・・。

こちらは群馬県庁昭和庁舎。1928(昭和3)年築で、設計は佐藤功一。高層ビルの新庁舎が背後に建っていますが、戦前の建築は両翼も含めて保存されているのが嬉しい話です。

さらに自転車を走らせ、上毛電鉄の中央前橋駅を撮影。JRの前橋駅とはずいぶん離れていますね・・・。

さて、再び利根川を渡って総社古墳群の散策を再開。 まずは王山古墳【前橋市指定史跡】。形状は前方後円墳で、6世紀初頭の造営と推定。

墳丘の長さは約75.6mで、扁平な川原石が整然と葺かれていました。一部が見られるようになっています。

さらに蛇穴山古墳【国指定史跡】へ。 形状は方墳で、7世紀末の造営と推定されています。一辺約40m、高さ約5mで、総社古墳群最後の古墳です。墳丘の周囲に二重の周掘を持っていました。 この古墳の脇には前橋市総社歴史資料館があり、総社古墳群や山王廃寺、総社藩主の秋元氏や五千石用水について紹介しています。



向かい側には宝塔山古墳【国指定史跡】があります。 形状は方墳で、7世紀後半の造営と推定。一辺約60m、高さ12.4mで、玄室の奥には家形石棺があります。



麓には秋元山光巌寺は天台宗の寺院で、初代総社藩主の秋元長朝が1607(慶長12)年に元総社の徳蔵寺を移し、開基したもの。山号は秋元氏の姓、寺号は秋元長朝の母である光巌院から取られています。 境内の諸建築は大半が江戸時代のもの!上写真1枚目の鐘楼は1772(明和9)年、2枚目の秋元氏霊廟は1812(文化9)年築です。

面白いのがこちらの力田遺愛碑。1776(安永5)年に建てられたものです。 初代総社藩主である秋元長朝が他領から用水を引き、領民の暮らしを豊かにして以降、僅か33年の支配であったにもかかわらず領民から慕われ続け、用水完成から172年後に領民たちが秋元長朝の徳を称えたのがこれ。

さらに秋元家も代々総社に埋葬されたほか、後の領主である安藤氏の圧政で百姓一揆が起こった際には、老中だった秋元氏が支援して領民を勝訴させ訴え出た百姓の代表も死罪にならずに帰還。 さらに、天明の大飢饉の際には義援米を送って支援するなど、代々旧領の領民を気に掛け続けたとか。ここまで昔の領民と長い付き合いをする藩主一族は非常に珍しいですね。勉強になりました。



続いて愛宕山古墳へ。こちらの形状は方墳で、7世紀前半の造営と推定。一辺約56m、高さ8.5mで、玄室の奥には凝灰岩製の家形石棺があります。

最後に(総社)二子山古墳【国指定史跡】を見ます。形状は前方後円墳/6世紀後半の造営と推定。 墳丘の長さは約89.9mで、表面に葺石があったことが確認されています。前方部、後円部双方に石室があるのが特徴で、後円部石室が造られた後、前方部石室が造られたと考えられています。

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