2021年5月24日 三崎港と京急油壷マリンパークへ
職場の同僚SとKと一緒に三浦市へ。神奈川県内にありながら、本格的に散策するのは今回が初めてで、三崎城跡→三崎港→新井城跡→京急油壷マリンパークを巡って来ました。まずは、杉田駅で京急を少々撮影。こちらは1500形。
都営浅草線の新鋭、5500形。
2100形と1000形。
前面中央の貫通扉が特徴の1000形800番台。
金沢文庫駅に移動して1000形。
さらに横須賀中央駅で1000形。
三崎口駅に到着しました。口というだけあって、駅周辺は三浦市の中心部ではなくバスで向かうことになります。ちなみに駅名標が、三崎マグロ駅になっていました。
・・・と、振り返ると京急の2階建てオープントップバスが発車していきました。
さて、まずは三浦市役所へ行き、三浦市役所と旧三崎中学校周辺に築かれた三崎城跡を散策。
正確な築城時期は不明ですが、1516(永正13)年に北方3kmの位置にある新井城が伊勢宗瑞(北条早雲)によって落城し、三浦道寸(義同)らが戦死すると三崎城も落城。三浦一族の出口茂忠など一部の城兵は城ヶ島に逃れて抵抗しますが降伏し、三浦十人衆として北条支配下に組み込まれました。そして三崎城は北条家による水軍の拠点として改修され、浦賀城と共に江戸湾防備の要となります。
その後、安房の里見氏による攻撃が頻繁に繰り返され、三浦半島は北条氏と里見氏の攻防の舞台に。1567年に北条氏政は伊豆韮山城主の北条氏規に三崎城主を兼任させています。1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が敗北したことに伴い、廃城となりました。現在は三浦市役所周辺に土塁が残ります。
縄張りの図面。
続いて三崎港周辺を散策。古い商家や民家が点在しており、本格的に整備すれば中々の見応えが出そうな感じでした。こちらは旧山田金物店(現・三崎港 古民家の旅宿)。
溝川酒店。
三崎館本店。昭和初期の建築(戦後の改修あり)。三崎館本店は1908(明治41)年創業の割烹旅館で、PS2のゲーム「トロと休日」でトロが宿泊したお部屋もあります。
海南神社。982(天元5)年に現在地へ社殿が造営された相模国三浦総鎮守。九州太宰少弐であった藤原広嗣の五代の孫に当たる、藤原資盈公を御祭神とします。
源頼朝が挙兵した際、三浦義明は氏神である当社参拝の折、源平の争覇を占い、白と赤の狐が闘い、源氏の旗の色と同じ白い狐が勝ったことから源頼朝側に加担したと伝えられます。
さすがマグロが有名な三崎港だけあって、海南神社にもマグロが…。
おみくじもマグロみくじ。自分で釣らないといけません。
続いて油壷マリンパーク方面へ行き、新井城跡へ。新井城の築城年代は不明ですが、この地を治める平安時代末期以来の武家、三浦氏の城として小網代湾と油壺湾の間を西へ張り出した岬に築かれ、三方を海に囲まれた天然の要害でした。
1512(永正9)年、突如として勢力を台頭させてきた小田原の伊勢宗瑞(北条早雲)によって岡崎城、次いで住吉城(逗子市)を攻略された三浦義同(道寸)は新井城に立て籠もり、3年にわたって抵抗を続けますが、1516(永正13)年に落城し、全滅。この際、三浦家主従たちの遺体によって湾一面が血に染まり、油を流したようなようであったことから、同地が油壺という名前になったという逸話があります。
今ではすっかり穏やかなイメージですが…。
現在、新井城の敷地の大半は東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所となっており立ち入りできませんが、周囲に残る土塁や空堀を見ることができます。
京急油壷マリンパークの近くには三浦道寸公の供養墓があります。
さて、京急油壺マリンパークへ。1968(昭和43)年に京浜急行電鉄創立70周年記念事業として戦前の海軍潜水学校、戦後の神奈川県立三崎水産高校跡地に建てられた水族館で、2021(令和3)年9月30日で閉館。微妙に遠いこともありこれまで敬遠していたのですが、この機会に行かないと2度と見られません。
ムカシオオホホジロザメの顎歯の実物大模型
メガマウスザメの標本
大回遊水槽ではオオメジロザメ、ノコギリエイ、シロワニ等の展示を実施。
2014年3月に横須賀市の走水漁港で見つかったダイオウイカのメスの個体。
老朽化は否めない感じでしたが、展示内容が他の水族館と見劣りがするわけではなく、しかもほぼすべての展示施設・パフォーマンスをペットと一緒に見学することが可能で、ドッグランも設置されているのが特徴。面白いと思うのですが、やはり場所が悪いでしょうか…。
さて、三崎口駅から帰ります。
久里浜駅でJR横須賀線に乗り換えて帰宅します。
構内に停泊中の209系訓練車。いつか209系訓練車だけを集めた撮影会の企画は無いでしょうか。
E5系塗装のスイッチャーがいました。これは速そうですね。