2023年1月20日ほか 慶応大学ほか港区の近代建築と兵馬俑展へ


本題に入る前に1月9日の撮影記録から。まずは、昨年12月18日に供用を開始した横須賀線の新下りホームを撮影。再開発によって人口が急増する武蔵小杉駅では混雑が著しく、ついに横須賀線では上下ホームが分離することに。


さて、南武線のE233系を撮影すると少し違和感が。元々は青梅線・五日市線で活躍していた青670編成で、ドア上のサイネージ変更を行ったうえでE233系8500番台に改番。N36編成となって、2017(平成29)年3月から南武線で活躍しているものです。違和感の正体は、列車番号の表示位置が先頭車両上部の行先表示器内にあること。また、側面に半自動ドアボタンが残されていることも特徴です。

比較対象としてN5編成も撮影。

続いて渋谷駅の山手線ホームを撮影。武蔵小杉駅の例と異なり、こちらは前日に外回りホームが、内回りホームを広げた上で1つに統合されました。現状では仮整備のようで、ゴチャゴチャした雰囲気ですが、変わりゆく渋谷駅を象徴する雰囲気です。


この日の最後は、西武新宿線で30000系「DORAEMON−GO!」が運転されていたので乗車。



非常にユニークな電車ですね。もっと話題になっても良いと思うのですが、外観デザインが控えめだからでしょうか。

帰路は小田急30000形EXEの非リニューアル車に乗車。リニューアル前の方が高級感があるような…。少し暗めではありますが。

1月15日は、京急1000形1890番台「Le Ciel」(ル・シエル)の一部編成に掲出が開始されたロゴマークを撮影。愛称は伝統の海水浴特急「ラ・メール号」をオマージュしたもので、ロゴマークは「京急に乗って遊びに行く、わくわくする雰囲気」を、けいきゅんが愛称を描く、楽しげな印象で表現するとともに、「空」をイメージした青のグラデーションで描いた柔らかな印象が快適なアクセスや京急沿線の「空」の爽やかさを想起するデザインしているそうです。

さて、前置きが長くなりましたが1月20日。この日は昼前に職場の人たちと共に高輪ゲートウェイ駅に降り立ち、再開発現場を撮影。あっという間にビルが建っていくのだろうなと思っていましたら、その後も凄まじいスピードで工事が進められています。

高輪ゲートウェイ駅、泉岳寺駅近くにある高輪大木戸跡。江戸の治安維持のため、1710(宝永7)年に東海道の両側に石垣を築いたもので、現在は東側のみ残ります。大木戸は、江戸内外の出入り口となる簡易的な関所で、ほかに四谷大木戸が甲州街道に、板橋大木戸が中山道に設けられましたが、石垣が残るのはここだけ。

続いて、東京タワーを遠めに見ながら慶応大学三田キャンパスへ。

慶応大学三田キャンパスは、江戸時代に島原藩中屋敷があった場所が1871(明治4)年に慶応義塾へ貸付(翌年に払い下げ)されて以来の場所で、敷地はそれほど広くないものの、数々の近代建築が残っています。こちらは、1875(明治8)年築の三田演説館。木造二階建、桟瓦葺、ナマコ壁の建物で、福沢諭吉が三田演説舍の会堂として建てさせた疑洋風建築です。慶應義塾大学草創期の歴史を今に伝える貴重な建築であるほか、日本最初の演説会堂であり、国指定重要文化財です。

1911(明治44)年築の慶応義塾図書館旧館。慶応義塾設立50周年記念事業として建設されたもので、煉瓦造(一部鉄筋コンクリート造)、二階建、地下一階、一部三階、書庫六階。関東大震災の被災等によって内部の改修は行われていますが、当時は旧態をよく残しています。こちらも国指定重要文化財。


階段に設置されたステンドグラス。元々は1915(大正4)年に制作されたもので、1945(昭和20)年に戦災で失われたものを1974(昭和49)年に復元しました。


2階は福沢諭吉などに関する資料室として公開されています。また、関東大震災前の慶応義塾三田キャンパスの様子を再現したジオラマも設置。手前の屋敷は福沢邸です。


1926(大正15)年築の慶應義塾大学塾監局。

続いて、JR田町駅近くにある薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)を見ますが…。

ビル建て替え中につきこのような状態。

 さらに、芝浦にある港区立伝統文化交流館(旧・協働会館)へ。1936(昭和11)年に芝浦花柳界の見番として建設された、都内に現存する最古級の木造見番建造物。見番とは、「置屋」「料亭」「待合」からなる「三業」を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設のことです。当時の芝浦は、活魚料理の料亭が軒を連ねていたほか、多くの芸者を抱える花街として栄えていました。
 戦後は東京都により港湾労働者の宿泊所「協働会館」として使われていましたが、老朽化に伴い2000(平成12)年に閉鎖。周囲がマンション等に次々と改築されていく中、この建物は幸いにも港区によって保存整備工事が行われ、2020(令和2)年4月1日から一般公開が開始されました。港区指定有形文化財です。

2階の様子。「百畳敷」と呼ばれた大広間で、現在は様々なイベントに活用されています。


そして上野の森美術館で「兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜」を見学。秦の始皇帝の兵馬俑はしばしば来日しますが、今回は写真撮影OKだったのが最大の驚きでした。こちらは青銅長剣。


2号銅車馬のレプリカ。始皇帝の陵墓の西、銅車馬坑から発掘された2両のうちの1両で、秦の始皇帝の御車の隊列を模し、実際の2分の1のサイズで製作されたそうです。4頭だてとは凄い。

跪射武士俑

鎧甲騎兵俑。

こちらは別の鎧甲騎兵俑。

鎧甲軍吏俑。鎧を着た下級軍官で、鼻から口のあたりに皮膚の色彩が残ります。

こちらも鎧甲軍吏俑。肌・ほほ・耳のあたりに皮膚の色彩が残ります。


戦服将軍俑。兵馬俑から現在までの間に発見されている、11体の将軍俑のうちの1つです。八の字のヒゲ、下顎のヒゲが特徴です。


戦車馬。

立射武士俑。

プロジェクションマッピングを用いて、制作当初の彩色された状態の兵士俑が展示されていました。近年の研究では鮮やかな顔料も使われていたとされ、さぞ壮観だったことでしょう。

続いて上野公園を散策。こちらは天海僧正毛髪塔(東京都指定旧蹟)。天海は徳川家康の側近として活躍した天台宗の僧(大僧正)で、尊号は南光坊。日光東照宮の造営を指導したほか、上野寛永寺の創建を行っています。

こちらは上野東照宮。1627(寛永4)年、徳川家康(東照権現)の遺言で、天海僧正と藤堂高虎が寛永寺の敷地内に造営したもの。正式名称は東照宮ですが、日光や久能山など他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれています。

銅燈籠は国指定重要文化財で、諸大名から寄進されたもの。全48基あります。

神楽殿は1874(明治7)年に、深川木場組合が奉納したもの。


唐門 【国指定重要文化財】
1651(慶安4)年築。左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻が見どころで、 毎夜、不忍池(しのばずいけ)の水を飲みに行くという伝説もあります。


社殿(拝殿・幣殿・本殿) 【国指定重要文化財】
1651(慶安4)年築。参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造り。以前は内部が公開されていましたが、現在は非公開です。

参道からも見える旧・寛永寺五重塔 【国指定重要文化財】。1645(寛永16)年築。幕府の実力者・土井利勝が1639(寛永8)年に建築して寄進しましたが、寛永16年に花見客の失火により消失するという事態に見舞われ、その年のうちに再建した物です。元々は上野東照宮の五重塔でしたが明治の神仏分離によって寛永寺の帰属に。戦後は東京都が管理。現在は上野動物園の中にあります。

最後に旧・因州池田屋敷表門(黒門) 【国指定重要文化財】。江戸時代末期の建築と推定される鳥取藩池田家の江戸上屋敷の正門だったもので、今の丸ノ内3丁目にあったものですが、明治になって東宮御所、高松宮邸に移築、さらに1954(昭和29)年に今の場所(国立博物館)に移築されています。

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