2023年2月3日 相模運輸倉庫専用線・瑞穂線跡&旧伊藤博文金沢別邸へ


本日は友人のSとKと一緒にお出かけ。今回のプランはお任せ状態でスタートし、言われるがままに横須賀線の田浦駅で下車します。車内からは何度も見ていましたが、トンネル位置の関係で1両ドアカット(ドアが開かない)を初めて堪能します。


こちらが田浦駅。随分とひっそりとしています。

駅前には大きなレンガ倉庫も。

そして、現在は使用されていない田浦駅からの相模運輸倉庫専用線跡の痕跡を見ます。元々は長浦港へ張り巡らされていた貨物路線で、一部は在日米軍の田浦送油施設にも続いていました。1998(平成10)年に使用が中止されたそうで、道路用地などに転用された箇所もありますが、今も一部は線路を見ることが出来ます。



途中、錆びてはいますが、ドラマや映画にも出てきそうな倉庫があったので撮影。

平面交差の線路を発見!これは現役の時を見ておきたかったですね。


草むらに覆われていますが、踏切の痕跡も見られます。

田浦駅に戻ります。こちらも良く見ると、今も貨物線の跡がしっかりとありますね。



それでは、今度はE217系に乗車して逗子駅へ。

 JR逗子駅を降り、逗子市役所に隣接する亀岡(かめがおか)八幡宮へ。応神天皇を主祭神とし、創建年は不明ですが、古くから「八幡宮」として親しまれ、近くにある延命寺(逗子大師)という真言宗の寺院が別当として管理してきました。
 明治維新後の神仏分離により独立し、1873(明治6)年に村社に列せられ、正式に逗子の鎮守と指定。1953(昭和28)年に宗教法人亀岡八幡神社として登録され、通称として亀岡八幡宮と呼ばれています。亀岡の名前は、立地している場所が亀の背中のようになめらかな場所であり、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対して付けられたといわれます。
 社殿は1923(大正12)年2月に改築されたもので、同年9月の関東大震災による被害を受けますが倒壊を免れ、今に至ります。

続いて京急の新逗子駅・・・から改称された、逗子・葉山駅へ。元々は京浜逗子駅と逗子海岸駅を統合し、その中間にホームを設置したとか。こうした経緯があり、北口駅舎(元・京浜逗子駅)は改札を抜けると、道路上を渡ってホームへ入ることになります。

こちらは元は逗子海岸駅であった南口駅舎。当時のホームは、さらに南側に広がっていました。

ホームに入ると、車止めが随分と立派だったので撮影。

ここからは1500形に乗車します。


金沢文庫駅で乗り換え、金沢八景駅へ。駅に隣接する、旧円通寺客殿(旧木村家住宅主屋)を見ます。


 ここは、同公園内にあった東照宮(※現存せず)の別当である円通寺があった場所で、1868(明治元)年に神仏分離令により廃寺となりますが、茅葺屋根の客殿が残されています。客殿は東照宮が再建(修復)された1802(享和2)年あるいは1843(天保14)年に建築されたと考えられ、東照宮を詣でる身分の高い参詣客を迎えるために使われました。式台玄関や、書院造りの奥座敷などが格式の高さを表しています。
 明治維新後は円通寺の住職であった木村家の住宅として、大きな改変もなく使用され、2015(平成27)年に木村家から横浜市へ寄贈。1997(平成9)年に横浜市認定歴史的建造物、2016(平成28)年に特定景観形成歴史的建造物となっています。


釘隠しに使われる葵の御紋が光り輝いています。

今は京急が行き交う金沢八景駅周辺ですが、江戸時代はこんな風景だったようです。

さて、金沢八景駅は2019(平成31)年3月31日にシーサイドラインが延伸し、京急と直結。京急側も駅舎を大幅に改装し、雰囲気が一新されました。

こちらはシーサイドラインの金沢八景駅改札口。

今度は野島公園駅で下車し、1898(明治31)年に建てられた旧伊藤博文金沢別邸を見ます。茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築で、大正天皇や韓国皇太子の李垠(イ・ウン)など、皇族なども次々と訪れています。金沢の地は古来から風光明媚な地として名高く、中でも旧伊藤博文金沢別邸にある野島は、江戸時代に歌川広重が描いた金沢八景の中で「野島夕照」(のじませきしょう)に描かれています。伊藤博文は当時、大磯の「滄浪閣」を本宅に、この別邸を使用していました。


伊藤博文が1909(明治42)年にハルビン駅で暗殺されると、この別邸は次男である伊藤文吉が所有し、1959(昭和34)年からは横浜市の所有に。1962(昭和37)年に玄関部分・湯殿部分が撤去されますが、2006(平成18)年に横浜市指定有形文化財に。現存しない部分を含め、修復と復元が進められ、2009(平成21)年から一般公開されています。


客間にある金屏風は、伊藤博文が1901(明治34)年に金沢の地で書いたもので、邸宅を管理していた松本房治氏に贈ったもの。

こちらは湯殿。

明治憲法草案(複製)が展示されていました。

直ぐ近くには、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月から6月にかけて、野島山を東西に貫通する形で造られた野島掩体壕(のじまえんたいごう)が残ります。こちらは東側の出入口。

これは横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から退避する目的で整備されたもので、通常の掩体壕は戦闘機1機を格納するのが一般的ですが、ここは何と約100機を収容できる大きさ(長さ260m×幅20m)で、現存する掩体壕では国内最大級です。一度も使用されることもなく終戦を迎え、内部は公開されていませんが、案内板が設置されています。

こちらも西側の出入口。

続いて市大医学部駅で下車し、1922(大正11)年に製造された日本セメント上磯専用線の第2号機関車を東洋電機工場で見学させていただきました。

シーサイドラインも撮影。

京浜東北線の東神奈川駅で下車し、貨物線である高島線から分岐し、現在は廃止された貨物支線である瑞穂線の橋梁を見ます。1934(昭和9)年に造られた、日本初の溶接鉄道橋で、錆びてはいますが非常に重要な鉄道遺構です。橋梁を渡った先は米軍の敷地内となっていて見ることはできません。2021(令和3)年に瑞穂支線の線路及び土地がアメリカより返還されたことから、もしかすると今後、解体されるかもしれません。

こちらは現役の貨物線である高島線で、EF210形を撮影。

最後に、東急東横線の横浜〜反町間の地上線の廃線跡を歩いて〆としました。



反町駅の駅舎は地下化により改築されましたが、東急東横線が走行していた高架橋は今も見られます。

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