2023年4月29日 東急世田谷線で世田谷代官屋敷と松陰神社へ
前回の東横線のSDGsトレインに引き続き、今度は東急世田谷線のSDGsトレインを撮影。こちらは、2020(令和2)年9月7日から運転されていた307編成「SDGsトレイン『美しい時代へ号』」を山下駅にて。
こちらは、2023(令和5)年4月25日から運転を開始したばかりの310編成「SDGsトレイン『美しい時代へ号』」。東横線のデザインと同じく、グラデーションになっています。また、これに伴い307編成のラッピングが解除されるため、両方の姿をまとめて記録できたのは良かったです。
世田谷線に乗車し、上町駅で下車。ここから徒歩で約4分に位置にあるのが、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20か村の代官を世襲した大場家の役宅である世田谷代官屋敷。1737(元文2)年に7代目の大場六兵衛盛政が建て直した表門と主屋が国の重要文化財となっています。
こちらが主屋。
主屋を背面から撮影。2階建てになっていますが、これは嘉永年間(1848年〜1854年)に11代当主の大場準之助景長が2階座敷を増築したものです。
江戸時代、現在の滋賀県彦根市にあった彦根藩は、関東には下野国(現在の栃木県)佐野領1万7693石と、もう一つが武蔵国世田谷領2306石の2つの領地が与えられ、世田谷を治めるにあたり、室町時代には世田谷城主の吉良氏の家臣であった大場氏を代官に任命しました。大場氏はさらに元をたどれば、平安末期の源平合戦において、石橋山の戦いで源頼朝を撃破した、大庭景親の子孫とも伝わる家柄です。
さて、世田谷は江戸に近いことから、彦根藩江戸藩邸で必要な物資や労働力の供給地となったり、豪徳寺(井伊家菩提寺)で行われる法要や葬儀で必要な人員の手配など、職務は多岐にわたったようです。 このため、第10代当主大場弥十郎景運は『公私世田谷年代記』という著書の中で、「世田谷領は村数が多く支配が大変である。江戸に近いため彦根藩邸の御用も多いのに、部下もつけてもらえない。それにもかかわらず代官の業績としては評価されない。縁の下の力持ちとはこのことを言うのだ」(世田谷区立郷土資料館資料館だより/令和2年3月31日より引用)と嘆いたほど…。
とはいえ、大場氏は今も地元の名家であり、今も世田谷信用金庫の理事長を務められています。
主屋はボロ市通りに面する北側を、公務、接待するための広間や座敷などを配した執務空間とし、南側を家族の空間としたようです。
お白洲の玉砂利が白洲跡として残されています。元々は「書院座敷」の中庭であったものですが、書院座敷は1967(昭和42)年、武者小路実篤の”新しき村”(埼玉県入間郡毛呂町)に移築されています。
さて、上町駅に戻ると再び310編成SDGsトレインに出会いました。
こちらは304編成。
301編成。旧玉川線の塗装を再現したツートンカラーです。
続いて乗車したのは、308編成による玉川線開通110周年を記念した「幸福の招き猫電車」。
車内はこの通り。つり革の持ち手も招き猫の形です。
続いて松陰神社前で下車し、松陰神社へ。ここは、安政の大獄で刑死した吉田松陰の墓を文久3年に吉田松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって改葬したことに由来するもの。
現在の社殿は1928(昭和3)年に造営されたものです。
境内には吉田松陰が萩で営んだ松下村塾の建物が再現されています。1938(昭和13)年に建築されたもので、材料はこの地にあった毛利藩代官屋敷の古材と瓦を使用したほか、萩から集めて来たとか。萩に行かずとも、ここで見られるとは…。
吉田松陰先生御墓所。
隣接地には桂太郎元首相の墓もひっそりとありました。本人の遺言により、この地に埋葬されているとか。
それでは、再び世田谷線へ。
世田谷線のラストは再び310編成SDGsトレイン。今日はよく出会います。
最後に東急田園都市線で南町田グランベリーパークへ。スヌーピーミュージアムがあることでもお馴染みですね。
この日は、2022年10月13日(木) 〜 12月4日(日)まで全国各地を巡ったスヌーピートラック「COLORS OF PEANUTS」が展示されていました。
最後に非常に開放的な南町田グランベリーパークと鎮座するスヌーピーを撮影して〆としました。