○大阪から忍者の里を目指して伊賀上野へ〜2010年1月9日(土)・10日(日)〜
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本日は友人の桜乃(桜ノ咲みえ)氏が制作する同人音楽CDの打ち合わせのため、氷川副所長の発案で大阪へ。私も1曲書かせていただき、氷川副所長が高らかに歌い上げてくれる予定なのです。
しかし友人に依頼していた歌詞が完成したのが前日の夕方。そのため大急ぎで深夜まで楽譜に歌詞を当てはめていたため、眠い〜。おまけに風邪の後遺症でノドがやられてしまい、ガラガラ声という悲惨な状況の中で出発です。
ともあれ、東海道新幹線より富士山を拝みます。
面白いもので、東海道新幹線の車窓の中で岐阜羽島〜米原間のみ、見事に雪が積もっていました。写真は関ヶ原付近の様子。う〜ん、これは寒そう・・・。そして、そんな寒い中で米原駅で500系「のぞみ」狙いの同業者が多数。凄いですなあ。
私は京都駅にて500系を狙います。とりあえず700系「ひかり」を撮影。
で、京都であることがわかる風景と500系を絡めたかったので、こんな感じで撮影してみました。それにしても京都駅は相変わらず東西に長い・・・。本当に巨大な駅です。
こちらはN700系「のぞみ」。では、大阪に向かいます。
新大阪駅で700系「ひかりレールスター」を撮影。あまり注目されていませんが、九州新幹線開業後は、これもどうなるか解りませんね。おそらく短編成化の上で100系置き換えではないかと思うのですが。
そして在来線ホームに回り、207系の後方からやってくるのは・・・。
寝台特急「日本海」でございます。こちらは廃止のアナウンスはありませんが、撮れるときに撮っておこう、ということで同業者が多数待ち構えておりました。やっぱり被写体としても単純に格好いいですよね。
新大阪駅に停車中の寝台特急「日本海」。
こちらは北近畿タンゴ鉄道の特急「タンゴエクスプローラー」。本日は2編成連結した6両編成でした。
続いて大阪駅に到着すると、あらビックリ。掲示板への投稿などで大阪駅の改築工事がかなり進んでいることは知っていましたが、自分の目で見ると変貌ぶりに驚かされます。
さて、ホームの雰囲気もかなり変わったので、ちょいと撮影。まずは大阪環状線の201系。オレンジ色の201系を、心行くまで何度でも堪能できるのはファンとしては嬉しいもの。まあ、特に側面は大幅に変更され、車内はリニューアルにより最新型同様なので、殆ど原型をとどめていませんが・・・。
683系4000番台による通称”ヨンダーバード”こと、特急「サンダーバード」。今回初めて撮影しました。しかし、登場して間もないにもかかわらず、もう側面がしっかりと汚れております。白い車体を維持するのは大変とは思いますが、看板特急なのですから、しっかりとした手入れを期待したいもの。
いよいよ次のダイヤ改正で1往復化と、通常6両編成化が実施される485系特急「雷鳥」。ホームの雰囲気が随分と変わりましたね。何だか別の駅で撮影しているような気分です。
う〜ん、ちょっと撮影がしにくくなった感じもします。
そして新大阪駅に先回りして、再び特急「雷鳥」を撮影。
こちら、先日183系に改造された元「雷鳥」用485系。窓下の赤ラインは追加されず、純粋な国鉄色のままなのが特徴です(運転台下のステッカーを除く)。
さて、ここで桜乃氏と、山口からやってきた氷川副所長と合流して大阪を歩きます。中学、高校からの付き合いなので全く気を使わなくて良く楽しいのですが、話したくてもノドの具合が悲惨で話せないのが辛かった・・・。さて、こちらは阪急百貨店うめだ本店。2012年のグランドオープンを目指して改築が進められております。有り難いことに、低層部は戦前に建てられた旧建物の雰囲気を再現しています。
こちらはJR大阪駅。北口の再開発も凄いですが、南口も大丸百貨店が増床工事中。どんどん変わって行きますね。
大阪駅の西側にある大阪中央郵便局旧庁舎。吉田鉄郎と逓信省営繕課の設計により、1939(昭和14)年に建築されたもの。現代オフィスビルのさきがけで、合理性を追求したシンプルなデザインが特徴です。で、高層ビルに建てかえる予定でしたが、東京中央郵便局と同様に鳩山邦夫総務相(当時)の鳩の一声があり、こちらの方は宙ぶらりん状態。民主党政権になりましたが、さて今はどうなっているのやら。
建築好きとしては、是非残してもらいたいものですが、一般の人には何が凄い建築なのか良く解らないでしょうし、駅前の一等地をこのまま放置も勿体無いですし、どうしたものでしょうか。
ちなみに、1933(昭和8)年に、大阪中央郵便局に先立ち、同じく吉田鉄郎の設計で建てられた東京中央郵便局と比較すると、東京の方が近代洋風建築の面影を随所に残すのに対し、大阪は完全に現代のオフィスビルと変わらぬデザイン。東京と大阪の2つセットで残ると、この建築の歴史の流れを見られるわけであります。
そしてアメリカ村を経由し、心斎橋方向へ。途中、こんな看板を見つけましたが・・・なんだったのやら。
こちらは1933(昭和8)年にヴォーリズの設計で完成した、大丸心斎橋店。隣は、かつての「そごう」ですが大丸が買い取り、こうなると日本でも有数の店舗面積を持つ百貨店となりましたね。
大丸心斎橋店、先ほどの写真は御堂筋から見た風景ですが、その反対側の心斎橋側入り口の正面には、大丸のシンボルである孔雀の装飾が掲げられており、それはもう素晴らしいデザイン。最近の建築は、こういうのを採用しないので、ちょっと残念です。
そして南船場に行き、古そうなビルを発見したので撮影。こちらは原田産業株式会社大阪本社ビルで、1928(昭和3)年の建築。
これは大阪農林会館。1930(昭和5)年の建築で、元々は三菱商事大阪支店でした。
さて、この後は近くのスタジオで氷川副所長、歌の特訓。とは言え、私の方も準備不足であり、歌わせながら、その都度色々変更していくような始末。ともあれ、何とか形になったので、あとは来月のレコーディングを待つのみです。
さて、翌日は氷川副所長と忍者を求めて伊賀へ、天王寺駅から出発します。で・・・、オレンジ色の201系って、普通に奈良まで直通していたんですね。
103系もバリバリ現役の関西。大阪環状線の103系と、大和路線の103系の並びも撮影できました。
そして加茂駅でキハ120形に乗り換え、ゴトゴト・・・と伊賀上野駅に到着。
ここで伊賀鉄道に乗り換え、上野市駅に向かいます。
上野市駅では漫画家・松本零士さんデザインの860系「忍者電車」を撮影。
こちらが伊賀鉄道の中心駅である上野市駅。ちなみに自治体名は、2004年の合併で上野市が伊賀市に変わっています。駅舎は非常にレトロな雰囲気で、いくつかのサイトで見る限りでは1922(大正11)年の建築のようです。
そして向かうは上野城。1585(天正13)年に大和郡山から移封された筒井定次によって整備されたのが、近世城郭としての始まりで、1608(慶長13)年に改易されると、藤堂高虎に領土の1つとして与えられます。本拠は伊勢の津城においた藤堂高虎ですが、上野城についても、豊臣家との戦いに備えて堅牢なものとし、高石垣や二ノ丸の整備、5層の天守閣の建設を行います。
しかし天守閣については1612(慶長17)年に、竣工を直前にしながら倒壊。その後、豊臣家が滅亡したことや武家諸法度による規制などから天守閣は再建されませんでした。それから月日は流れ、1935(昭和10)年になって、衆議院議員であった川崎克が、かつての天守台に模擬天守閣を建設。
これが現在見られる上野城の天守閣で、川崎氏はこれを「伊賀文化産業城」と命名。何ら歴史的な考証の無い、全くのニセモノ天守閣ではありますが、鉄筋コンクリートではなく木造で本格的に造られているため、非常に本格的。で・・・、ご覧のように本日は修復中。何でも台風の被害に伴う補修だそうで、2月末まで工事が行われるそうです。ガーン・・・。
続いて上野城の北側にある伊賀流忍者博物館へ。ここから約10m南にあった、江戸時代後期の下忍の住まいを移築して、1964(昭和39)年にオープンしたもの。
屋敷の中は「どんでん返し」や「仕掛け戸」など、色々なカラクリがあり、ガイドの方が実演してくれます。
また、付属の博物館では様々な手裏剣を始めとする忍者の道具も多数展示。「子どもの頃に読んだ本と全く同じだ」と氷川副所長も大満足。意外と面白く、オススメでございます。引き続いて2月に大阪に行くときは、レコーディングの帰りに甲賀に行きますかね、副所長!
さてその隣、まるでキノコのような変わった建物があります。これは俳聖殿という建物で、昨年3月に三重県指定有形文化財となりました。1942(昭和17)年、松尾芭蕉の生誕300周年を記念して造られたもので、下層は八角形平面、上層は円形平面。そして外観のイメージは、先ほど上野城天守閣を建築した川崎克氏の、芭蕉の旅姿を建築で現したいとの希望により、伊藤忠太博士が設計したもの。
笠をかぶり、蓑と衣を着た松尾芭蕉が建物となって現れています。上層部の屋根の湾曲は面白いですなあ。
続いて訪れたのが旧小田小学校本館。1881(明治14)年、小田学校の新校舎として建てられ、同時に啓迪(けいてき)学校として改名。1887(明治20)年に小田小学簡易科授業所、1891(明治24)年に小田尋常小学校など、何度か校名変更を経て、1947(昭和22)年に小田小学校と改称。1965(昭和40)年に廃校となり、この校舎は保存されています。
2階ではギヤマンの色ガラスがはめ込まれており、特徴の1つ。
また明治から現代までの教科書や通信簿まで展示されており、非常に参考になります。
さらに今度は、江戸時代の藩校であった旧崇廣堂(国史跡)へ。崇廣堂は1821(文政4)年、上野城二の丸の西土居側へ、津藩の藩主である藤堂高兌が、津の藩校有造館の支校として建てさせたもので、現在の建物は1854(安政元)年の安政の大地震で被害を受けた後に、再建されたもの。
講堂はこのように広々とした空間であるのが特徴で、さらに光を上手く取り入れられる構造になっています。というわけで、伊賀市中心部には江戸の校舎と明治の校舎の2つが至近距離で残っています。
さらにその隣は、旧三重県第三尋常中学校校舎と、その正門が現存(県有形文化財)。1900(明治33)年に竣工したもので、三重県庁や三重県師範学校校舎を設計した清水義八が、ここでも設計を担当しています。凄いですねえ、これだけ一度に戦前の学校建築を見たのは初めてです。
さらに東へずっと歩いていくと、松尾芭蕉の生家があります。まあ・・・普通の町屋でした。しかし、残っているものですねえ。
他にも見るべき場所はいくつかありますが、何しろ寒い。どうせ上野城が修復した後に、もう一度来る予定なので、今日はこの程度にして、上野市駅を出発します。松尾さん、また会いましょう〜♪
上野市駅構内では伊賀鉄道のレトロカラー2種と対面。左側は昭和30年代まで旧型車に塗られていたダークグリーンにリバイバル塗装された編成。右側は、この860系が新製されて奈良線に登場した当時の塗装だそうです。
そして東急1000系を購入して、新たな忍者列車とした200系に乗って終点の伊賀神戸駅へ。この車両、車内も石畳のシールが貼られていたり、座席の一部が固定クロスシートになっていたりと、東急時代とはかなり印象を変えています。
ここで近鉄特急に乗り換え、伊勢中川経由で近鉄名古屋駅へ。
で・・・なんと、トヨタの工場を転用した「トヨタテクノミュージアム
産業技術記念館」に久しぶりに行ってきました。前回は、あまりこういうのに興味の無い友人と行ったため、さほど見られなかったのですが、今回は・・・閉館時間が迫っているという状態。まずは糸を作るという技術から見て行きます。
こちらは信濃の技術者、臥雲辰致(がうんときむね)によって1873年発明された「ガラ紡機」の1つで、機械自体は1931年のもの。ガラ紡機は当初、手回しでガラガラ言いながら糸を紡いでいましたが、後に動力化され、この機械は水車により、大量に糸を紡いでいきます。
一方、ガラ紡機が日本で登場している頃、イギリスでは機械紡績システムが発達していました。これは1910年にプラット社で製造された練条機。ここで紡績の工程を書いておきますと、開棉→混棉→打棉→梳棉→練条一粗紡(始紡)→間紡→練紡→精紡という順番。練条では、数本のスライバを合わせて引き伸ばし、1本とすることで、繊維の平行度を高め、スライバの太さのムラを少なくします。
続いて粗紡という工程へ。これは1899年、プラット社によって製造された粗紡機(始紡機)で、スライバを引き伸ばして、フライヤの回転によって、「より」をかけて粗糸とし、コーン状に巻き取っていきます。引き続き間紡→練紡の工程へ。
こうして出来た粗糸は、精紡の段階へ。こちらは1896年製造のリング精紡機。これによって粗糸を細かく引き伸ばして、「より」をかけて、品質の良い糸が完成します。
てなわけで、品質の良い糸を作るためにはいろいろな工程と機械が必要。後に1つの機械で2つの工程をやってしまうとか、技術革新も行われていますが、知識が無いため、さほど詳しく書けないので御勘弁を。で、こちらは2007年に豊田が登場させた高速精紡機。まあ、やっている作業は昔から変わりませんが、スピードが大幅アップ。
先ほどのリング精紡機は毎分9500回転でしたが、こちらは2万5000回転。さらに原料の自動供給に、最大1200本のポピンを一斉に交換する装置(オートドッファー)も備えるなど、コンピューター制御で何でもやってくれます。
すっかり紡績で色々御紹介しましたが、織機技術も忘れてはいけません。・・・が、スミマセン、時間がわずかなので今回は殆ど見ていません。で、トヨタの博物館ですので自動車関連も充実。最初にトヨタの車を造った頃の工場の再現とか・・・。
往年の名車の展示や工場機械の展示など・・・。
こちらは新たに展示に加わったセリカ(1970年)。
愛・地球博でインパクトを与えたi−unit
さらに自動演奏ロボットの実演も見させていただきました。
今回、所長撮影雑記を書くにあたって色々と紡績のお勉強も出来たことですし、また訪問してみたいですね。自動車も面白いですが、紡績と織機の技術って、色々と奥が深いなあ。
・・・というわけで、もう見学対象も場所も、何でもありの無茶苦茶な状態ですが、今回の旅行は終了。とりあえず予定では、今月はこれで遠くには行かない・・・つもりです。だから皆さん、所長を遠くへ誘うんじゃありません、誘うんじゃありませんぞ。