道後温泉・石手寺など〜愛媛県松山市〜
今回は、愛媛県の県庁所在地である松山市の文化財、史跡等を紹介(松山城、湯築城については別ページ)。
人口約50万人の松山市は、古くは聖徳太子が入湯し、舒明天皇(天智天皇・天武天皇の父)が639年に行幸したという道後温泉や、伊予の有力豪族である河野氏が室町時代に湯築城を築城するなど、古来から注目されてきました。
転機となったのは、1602((慶長7)年に加藤嘉明(よしあき)が、勝山と呼ばれていた山(丘)を松山と改称し、松山城を築城したこと。さらに蒲生氏の支配を経て、徳川一門の松平(久松)氏が15万石で入封し、伊予の中心地として大きく発展しました。また、明治時代には歌人の正岡子規を輩出し、さらに夏目漱石の「坊ちゃん」でも(やや否定的に)物語の舞台として登場しています。
太平洋戦争などによって多くの歴史的建造物を焼失しましたが、現在も松山城を中心とした街並みは随所に城下町としての面影を見ることが出来、人気の観光地となっています。
松山城の紹介は、こちら。 湯築城(ゆづき)の紹介は、こちら からどうぞ。
〇道後温泉とその周辺
古来から数多くの人に親しまれてきた道後温泉。小説「坊ちゃん」で松山を痛烈に罵倒した夏目漱石でさえ、当時は新築したばかりの道後温泉本館を訪れ、賞賛するほど。現在も松山市の観光の中心となっており、最近ではSL風列車の「坊ちゃん列車」が運転されるなど、新しい試みもあります。道後温泉本館 [重要文化財]
1894(明治27)年築。坂本又八郎設計、施工。神の湯と霊の湯という二つの浴室及び、それぞれの休憩室と、皇族専用の又新殿(ゆうしんでん)などから成っています。
明治期の温泉建築として非常に貴重な建物であり、どっしりとした和風の外観が今でも高い人気を集めています。また、宿泊しなくても気軽に湯に浸かれるのが魅力的。
道後温泉本館 [重要文化財]
こちらは道後温泉本館を背後から見た姿。特に右側は、なかなか凄まじい状態になっております(笑)。ちなみに、設計者の坂本氏は城郭建築の棟梁であったため、このような本丸御殿のような建物になっています。
伊予鉄道 道後温泉駅
1911(明治44)年築。ただし、老朽化に伴い1986(昭和61)年に鉄筋コンクリート造に改築され、外観復元という形になっています。
旧湯築尋常小学校校舎
1907(明治40)年築。湯築城(道後公園)近くに残る、木造2階建ての小学校の校舎。大正12年に現在地へ移築されて修明館と命名され、道後地区の教育の場として活用されてきました。
伊佐爾波神社 [重要文化財]
伝承では神功皇后(179〜269年)が、朝鮮へ出陣する際に道後温泉に立ち寄った際の行幸所跡に建てられたとか。延喜式に載っているため、平安時代には信仰を集めていたと考えられています。また、現在地には河野氏が湯築城を造った際に、その鎮守として移したそうです。
現在の社殿は1667(寛文7)年に松平定長が造営させたもの。京都の石清水八幡宮を模したと言われ、鮮やかな色彩と彫刻が見事な建物です。
愛媛県教育会館 [国登録有形文化財]
1937(昭和12)年築。伊予鉄道上一万電停近くにあるもので、木造三階建て、洋風の建物に和風の屋根が乗っています。同時期に流行した、帝冠様式(鉄筋コンクリート造の洋風建築に和風の瓦屋根を載せた建築様式)の親戚ともいえる建築です。
松山地方気象台 [国登録有形文化財]
1928(昭和3)年築。愛媛県教育会館近くにある気象台で、なかなか立派な近代建築です。
坊ちゃん列車
伊予鉄道が路面電車の路線を利用して運行する、かつての軽便鉄道を再現した列車。SLのように見えますが、実際にはディーゼル機関で走行します。予約なしで乗車できるため、松山駅や松山市駅から道後温泉へ行く際には、1度は乗ってみたい。
ちなみに伊予鉄道は、日本で初めて軽便鉄道を開通。夏目漱石の小説「坊っちゃん」にも登場しています。(撮影:リン)
〇石手寺
道後温泉から東に歩いていくと石手寺というお寺があります。これは、四国霊場第51番札所の寺院(真言宗豊山派)で通称「お大師さん」として親しまれています。728(神亀5)年に聖武天皇の勅願により安養寺として建てられ、石手寺と改めらたのは813年のこと。現在でも鎌倉時代に建てられた二王門や三重塔などが残っており、松山を観光する際には、はずせません。以下に紹介する以外では、護摩堂(重要文化財 室町時代中期築)、訶梨帝母天堂(重要文化財 鎌倉時代後期築)があります。恐るべし貴重な建築の宝庫。
石手寺二王門 [国宝]
1318(文保2)年築。伊予の有力者であった河野通継が建てさせたといわれ、門の左右室に、運慶一門の作と伝えられる金剛力士の逞しい立像が安置されています。
石手寺三重塔 [重要文化財]
二王門をくぐって右手に見える三間三重の塔で、高さは24.1m。鎌倉時代の建築といわれ、非常に均整の取れた美しい塔です。また、三重塔の東に位置する護摩堂は、室町時代築で重要文化財。
石手寺鐘楼 [重要文化財]
1333(元弘3)年築。1251(建長3)年の銘がある銅鐘(重要文化財)が吊られています。写真では、カラフルなカーテンが邪魔して様子がわかりづらいですが、非常に凝った造りになっています。
石手寺本堂 [重要文化財]
二王門と同時期の建築といわれています。
〇松山城周辺
愛媛県庁本庁舎
1929(昭和4)年築、木下七郎設計。現在も使用されている愛媛県の県本庁舎で、昭和のコンクリート建築を代表する重厚な雰囲気。路面電車との組み合わせはテレビなどでよく登場しています。ちなみに、背後は松山城の本丸と二の丸。左手は松山城の三の丸です。
萬翠荘(ばんすいそう) [県指定有形文化財]
1922(大正11)年築。愛媛県庁北東に位置する松山城山麓の建物で、設計者は愛媛県庁本庁舎と同じく木下七郎。旧松山藩主の子孫である久松定謨(ひさまつさだこと 1867〜1943年)の別邸として建築されたもので、定謨が陸軍駐在武官としてフランス生活が長く、造詣が非常に深かったことからフランス風に建築したとか。また、ハワイへ特別注文したという踊場壁面のステンドグラスなどは必見。
現在は愛媛県美術館分館郷土美術館として使用。ちなみに江戸時代は家老の屋敷がありました。
愚陀仏庵
萬翠荘敷地内にある建物で、かつて正岡子規が1階で、夏目漱石が2階で下宿して生活していた建物を復元したもの。明治を代表する俳人、文豪は1つ屋根の下で生活していたことがあったわけです。
秋山兄弟生誕地
日露戦争勝利の立役者で司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公である秋山好古・真之兄弟の生誕地に、残された写真や子孫の証言を頼りに原型に近い形で復元した生家。
武道場
1945(昭和20)年に愛媛県が建築。1949(昭和24)年に現在地である秋山兄弟生誕地へ移築されています。
路面電車(伊予鉄道市内線)
松山市の観光の足として欠かせないのが路面電車。松山城の周りをぐるっと1周する環状線に、道後温泉へ行く路線が接続しています。
高頻度で運転されており、とくに道後温泉へ行く場合は待つ必要が殆ど無いほど。超低床車両の導入も進み、バリアフリーな乗り物としても再注目されています。また、後述しますが、復元された坊ちゃん列車の運行も人気。
子規堂
伊予鉄道「松山市駅」の直ぐ南にある建物。正宗寺の境内にあるもので、正岡子規が17歳まで過ごした家の一部(8畳の書院)を移築。しかし、火災や戦災に遭い、現在の建物は戦後に復元されたものです。
子規堂
子規堂では夏目漱石が小説「坊っちゃん」の中で「マッチ箱のような」と表現した、伊予鉄道の軽便鉄道客車が展示されています。
〇その他
大宝寺本堂 【国宝】
鎌倉時代前期築。松山総合公園近くにある由緒ある古寺で、本堂は垂木間隔が柱間ごとに立つ、平安末期の阿弥陀堂形式を用いています。柱のほとんどが円柱なのも特徴。また、本堂内に収められている厨子は1685(貞享2)年製造で、こちらも国宝に指定されています。(撮影:リン)
大宝寺本堂&うば桜 (撮影:リン)
昔、ある長者が子どもに恵まれず、松山の西山のふもと、大宝寺のお薬師様に願かけをした。願いがかなって、女の子が生まれ、露と名づけた。大事に育ててきた乳母のお乳が急に出なくなったが、お薬師様のおかげでなおり、そのお礼に長者はお堂を建てた。それが、大宝寺の本堂だという。
お露は美しい娘に成長したが、十五歳のとき病にかかった。乳母は、わが命にかえてもお嬢様をお助けくださいと、お薬師様においのりした。お露は元気になったが、そのお祝いの席で、乳母は倒れ床についた。乳母はお薬師様との約束ですといって、薬も口にせず、「お薬師様に、お礼として桜の木を植えてください」と言い残して死んでしまった。
長者は、乳母のことば通り、桜を本堂の前に植えた。不思議なことに、桜は枝なしに幹から二・三輪花が咲いた。その花の色は、母乳のような色で、花はまるで乳母の乳房のようであったという。
この話は、明治時代に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の手で、英語に訳され、英国・米国で出版された「怪談」にも収められている。 「松山のむかし話」より
伊予鉄道高浜駅
大正時代築。付近の三津駅と共に残る、古い駅舎で立派な構造をしています。なお、松山観光港へはシャトルバスで5分程度。しかし、リムジンバスに乗客を殆どとられてしまっているようです。