奈良県奈良市(1)〜東大寺〜
Todai-ji (Buddhist temple) in Nara City, Nara Prefecture
古都奈良の文化財として、世界遺産に指定されている東大寺。
聖武天皇が741(天平13)年、国分寺建立の詔を出した翌年、金鐘寺(こんしゅじ)を大和国分寺(金光明寺)として全国の国分寺の中心として定めたのが起源です。そして743(天平15)年、聖武天皇が盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)建立の勅願を発令。しばらく都を点々とするなどの回り道もありましたが、民衆に人気のあった行基(ぎょうき)というお坊さんを中心として、庶民からの寄付を募って壮大な大仏を747(天平19)年から造営開始。この頃から東大寺と呼ばれるようになります。
752(天平勝宝4)年に大仏は完成し、758(天平宝字2)年に大仏殿が完成するなど、東大寺の整備はゆっくりと進んでいきますが、特に大仏の造営は国家財政に悪影響を与え、さらに建設に携わった人々にとっては過酷な労働となり、多くの事故死者や、帰国への手当てが無いことによる餓死者が出たそうです。
こうして多くの犠牲を払って完成した東大寺でしたが、平安時代末期には平氏政権に対して反抗の姿勢を見せたため、1181(治承4)年に平重衡による、いわゆる南都焼討によって大仏殿など大半の建物を焼失。俊乗坊重源という高齢のお坊さんが中心となって再建へ寄附を各地に求め、源頼朝らの協力によって1195(建久6)年に大仏殿が復興。
ところが1567(永禄10)年、戦国大名三好家の実権をめぐって、三次三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が争い、このときに三次三人衆が大仏殿に本陣をおきます。このため、東大寺や近くの興福寺は主戦場となってしまい、火をかけられて大きな打撃をまたも受けてしまいました(正倉院や南大門など残存した建物もあります)。
現在の東大寺は江戸時代になって復興されたもので、特に大仏殿は1709(宝永6)年に将軍徳川綱吉や母の桂昌院らの寄進によって、創建時の3分2の大きさで建設されたものです。棟高47m、間口57m、奥行き50mの、世界最大の木造建造物です。なお、大仏も度重なる戦乱によって打撃を受けており、現在のものは創建時からの部分は僅かで、鎌倉時代のものをベースとして、戦国時代、江戸時代に大きな補修を受けています。
(解説&写真:裏辺金好)
南大門
【国宝】
1199(正治元)年築。俊乗坊重源が中国・宋から伝えた大仏様と呼ばれる、豪放な建築様式で建てられた、日本でも数少ない現存例の1つ。物凄い迫力ですが、これが災いしたようで当時はそれほどヒットしなかったようです。 門の左右には運慶および快慶、定覚、湛慶らが制作に携わった木造金剛力士立像(国宝)が安置されています。
木造金剛力士立像
【国宝】
門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置。
高さは8.4m。
中門
【国重要文化財】
1716(享保元)年築。金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門で、昔風に彩色されています。
金堂(大仏殿)
【国宝】
1709(宝永6)年築。詳細については前述の通りです。
創建時の東大寺
金堂内部に展示されている、創建当時の東大寺の姿。左右に七重塔を設置した壮大なものでした。
鎌倉時代再建時の東大寺(復元模型)
平重衡などの南都焼討によって焼失した後、1195(建久6)年に重源らが中心となって再建した大仏殿の復元模型。1567(永禄10)年に 松永久秀&三好義継VS三好三人衆、筒井順慶、池田勝正の東大寺大仏殿の戦いで焼失しました。
ニ月塔
【国宝】
1669(寛文9)年築。旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名前で呼ばれます。度重なる戦乱にも耐えてきた・・・ところ、なんと江戸時代の1667(寛文7)になって、その「お水取り」の最中に失火で消失したため、江戸幕府第4代将軍、徳川家綱の寄進によって復興したものです。
二月堂閼伽井屋(あかいや/別名:若狭井屋)
【国重要文化財】
13世紀初期築。 修二会に際して、この屋内より本尊の十一面観世音菩薩に捧げる井戸水「御香水(閼伽水/あかみず)」を汲む儀式が行われます。
法華堂(三月堂)
【国宝】
左側は747(天平19)年頃、すなわち東大寺創建当時に建てられたもの。右側の礼堂(らいどう)部分は鎌倉時代の1199(正治元)年に老朽化した天平建築を取り壊して造られました。東大寺の歴史を伝える大変貴重な古建築であり、さらに内部にある本尊の不空羂索観音立像や、日光・月光菩薩像など天平文化を伝える仏像群が整然と並んだ姿は、とにかく圧巻としか言い様がありません。大仏ばかりが注目されますが、東大寺に来たときには、必ず見ておくべき場所の1つです。
大湯屋
【国重要文化財】
1408(応永15)年築。日本古来の浴室の遺構として非常に貴重なもの。内部には鉄湯船(国重要文化財)が残っています。
正倉院
【国宝】
756(天平勝宝8)年頃築。光明皇后が夫の聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献したをきっかけに造られたと考えられ、校倉造(あぜくらづくり)と呼ばれる建築様式が特徴です。「正倉」とは、「正税を収める倉」の意味で、こうした倉庫は、当時の役所や寺院などによくあったものですが、今では正倉院といえば、これを指すほど貴重な存在となっています。
古来より長らく東大寺が管理し、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収められていましたが、1875(明治8)年に内務省の管理となり、さらに農商務省、宮内省そして現在は宮内庁が管理しています。なお、宝物群は現在、戦後に建てられた鉄筋コンクリート造の西宝庫、東宝庫に移されています。
転害門
【国宝】
奈良時代築。度重なる兵火にも耐え、今に創建当時の姿を伝える貴重な門で、形式は三間一戸八脚門。東大寺の北西、正倉院の近くにあるもので、大仏殿からは少し遠いですが、是非見ておきたい建造物です。
東大寺の風景(大仏殿北側)
東大寺の風景(ニ月堂への道)
開山堂
【国宝】
内陣は1200(正治2)年、外陣は1250(建長2)年築。宝形造(ほうぎょうづくり)の小さなお堂ですが、随所に大仏様の影響が見られる貴重な建築です。
三昧堂(四月堂)
【重要文化財】
1681(延宝9)年築。
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