善光寺〜長野県長野市〜


 善光寺の門前町として発展した長野市中心部。善光寺の創建は明らかではありませんが、発掘に伴う出土物や資料から、7世紀後半には大きな寺院であったと考えられています。中世以降は善光寺信仰の広まり、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰。さらに戦国時代には武田信玄と上杉謙信の争いに巻き込まれ、特に武田信玄は1555(弘治元)年に本尊はもちろん、善光寺の組織も含めて本拠地の甲斐へ移しました(現在の甲斐善光寺)。
 武田家が滅亡すると、本尊は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉の所有となりますが、秀吉の死の直前に善光寺へ返還。そして江戸幕府が成立すると徳川家康の尽力で復興を遂げ、多くの人々が長野へ参拝に訪れるようになりました。1707(宝永)年には現在、国宝に指定されている本堂が完成するなど伽藍の整備が進み、1847(弘化4)年の善光寺地震で大きな被害を受けるも、現在も数多くの古建築が残ります。
 このページは善光寺はもちろん、その参道の風景も含めて順番に御紹介していきます。
(撮影・解説:裏辺金好)

〇地図



○風景


善光寺表参道  いくつか昔ながらの建物も残る表参道。マンションも低層部は和風にするなど景観への配慮が行われています。ちなみに1924(大正13)年に拡幅が行われており、今見られる風景はそれ以後のもののようです。


善光寺表参道

善光寺表参道
まちなか博物館として、各地にミニギャラリーが設けられています。非常に楽しめるものが多く、歩くのが楽しい空間。


中澤時計本店 【国登録有形文化財】  1924(大正13)年築。善光寺表参道(中央通り)の拡幅に際して建てられた木造2階建ての建物で、鉄筋コンクリートの洗出仕上げ。設計は長野市嘱託建築技師の本田政蔵。

八十二銀行大門町支店
ネットで調べると1997(平成9)年築とのことで、おそらく昔の建物のレプリカでしょう。


御本陣藤屋旅館  八十二銀行の奥、善光寺大門前に位置するこの立派な建物は「御本陣 藤屋旅館」という近代建築。この場所、江戸時代には北国街道善光寺宿の本陣として、加賀藩前田家が参勤交代で常用。明治になってからも伊藤博文や福沢諭吉などが愛用し、現在の建物は1924(大正13)年築に建てられた立派な建築。

 やはり表参道拡幅のときの建築で、先ほどの中澤時計本店と同時期の建築です。



御本陣藤屋旅館 玄関部分

御本陣藤屋旅館 上層部

参道石畳
 参道の敷石は1714(称徳)年に完成したもので、安山岩の長方形の石が規則正しく並べられています。一部補修はされていますが、現在も大部分は当時のまま。江戸中橋の大竹屋平兵衛の寄進によるもので、山門まで7777枚あるともいわれています。


仁王門
1918(大正7)年築。仁王像とその背後の三宝荒神・三面大黒天は、高村光雲・米原雲海の作です。


山門までの参道

大勧進

山門(三門) 【国指定重要文化財】
 1750(寛延3)年築の二層入母屋造りの巨大な門で、2007(平成19)年に完了した修復工事によって、大正年間に檜皮葺きにされた屋根が、創建当初のサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復元されました。


本堂 【国宝】  
 別当慶運が浄財を集め、そして大工甲良豊前入道宗賀の設計により1707(宝永4)年に建てられたもの。高さ約27m、間口約24m、奥行約54mの巨大な木造建築で東日本最大の伽藍。
 ちなみに本堂に入ると、内々陣の「お戒壇めぐり」をすることができます。これは全く光の入らない真っ暗な回廊を進み、中ほどにある極楽の錠前を探り当てることにより、秘仏である御本尊と結縁するというもの。先が見えないというのは非常に怖い。結縁以前に、いかに視覚に障害がある方の生活が困難であるか、理解を深めることが出来ました。


本堂 【国宝】

本堂 【国宝】  
横から見た姿。かなり奥行きがあるのが特徴で、仏堂(左)と礼堂(らいどう/右)から成ります。上から見ると屋根はT字型になっていて、この形は鐘を叩く撞木(しゅもく)に似ていることから、撞木造りと呼ばれています。

経蔵 【国指定重要文化財】
1756(宝暦8)年築。輪蔵、すなわち内部に廻転式の経棚をもつ建物です。

鐘楼 【国指定重要文化財】  
1853(嘉永6)年築。長野オリンピックのときは、ここにある1667(寛文7)年鋳造の梵鐘が開会の合図を告げ、全世界にその響きを伝えました。


牛に引かれて善光寺参り
・・・ということわざがありますが、善光寺にあった乳牛の善子さんと光子さん(乳牛親子像)。森永乳業の寄贈だとか。

常夜灯
本堂横の常夜灯は、江戸時代に武蔵国の有力者たちが寄進したもの。

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