小石川後楽園〜東京都文京区〜
  Koishikawa Korakuen in Bunkyo City , Tokyo

▼MAP

▼アクセス
JR中央・総武線各駅停車
都営地下鉄大江戸線飯田橋駅より徒歩

▼関連サイト
東京都観光協会「小石川後楽園」
 小石川後楽園は東京ドームの西隣にある庭園で、1629(寛永6)年、水戸藩初代藩主の徳川頼房が、水戸藩中屋敷(のち上屋敷)に造った庭園が始まり。水戸黄門でお馴染み、2代藩主の徳川光圀が明の儒学者・朱舜水の意見を取り入れて完成させ、中国の故事である「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。庭の形式としては、池を中心にした回遊式築山泉水庭園(かいゆうしきつきやませんずいていえん)。

 長らく水戸藩の庭園として使われましたが、1869(明治2)年に藩主の徳川昭武(とくがわあきたけ)が、版籍奉還と同時に新政府に寄贈。陸軍省の所管となり、東京砲兵工廠の敷地として、屋敷は工場に変貌しますが、庭園は保存され続けてきました。*工場は後に、現在の後楽園球場などに転用され、現在の東京ドームなどにつながります。

 1923(大正11)年より国の史跡及び名勝に二重指定されており、この際に岡山の後楽園と区別するために、「小石川後楽園」と地名を冠することになりました。そして1952(昭和27)年の文化財保護法では、国の特別史跡と特別名勝に二重指定されています。

 ちなみに、東京ドームの脇なので水道橋駅が最寄り駅の感じがしますが、出入り口の関係で飯田橋駅の方が近いです。訪問される際は参考にしてください。

(撮影&解説:裏辺金好)

○風景




一本松
琵琶湖の唐崎にある「一つ松」に因んだもので、このように後楽園は日本各地の風景を模した場所が多いのが特徴。


丸屋
田舎のわびた茶屋をイメージしたもの。戦災で焼失し、1966(昭和41)年に復元。





松原
往時は空が見えないほど松が生い茂っていたそうで、徳川光圀が最も珍重した場所。

異形灯篭




内庭
 一括りに後楽園と称されますが、現存する庭園は水戸藩邸の書院の庭である内庭と、それ以外の後園(後楽園)に分かれます。内庭は江戸に残る、純粋な大名屋敷の庭園として非常に貴重な例。

唐門跡
内庭と後園(後楽園)に分けた門があった場所。

唐門跡
当時はこんな感じだったそうです。

寝覚の滝
再び後園を歩いていきます。ここは内庭の池水の末流が木曽川に流れ込むところ。
木曽路の名所「寝覚の床」に因んで、こう呼ばれています。

木曽山
こちらも木曽路を思わせるような風景から名づけられました。


九八屋
江戸時代の風流な酒亭を再現したもの。戦災で焼失しましたが、1959(昭和34)年に復元。
名称の由来は「酒を飲むに昼は九分、夜は八分にすべし」と、控えることが大事という教訓から。

田端(たばた)
徳川光圀が、甥で養嗣子の徳川綱條(つなえだ)の夫人に農民の苦労を教えようと作ったもの。
現在は文京区の小学生たちが田植え、稲刈りを行っています。

玉川上水跡
後楽園は玉川上水を引き込んでおり、現在もその名残が見られます。

赤門
特に説明がありませんでしたが、屋敷との境界だったのでしょうか。

さて、中心にある池の背後は丘のようになっています。

愛宕坂(あたござか)
京都の愛宕山の坂に倣って造られた、47段の石坂。

八卦堂跡
関東大震災で倒壊し、現存せず。

円月橋
 朱舜水の設計と指導により、名工と謳われる駒橋嘉兵衛が造ったもの。後に8代将軍の徳川吉宗も江戸城にて真似しようと試みるも、果たせなかったとか。


得仁堂
徳川光圀が造らせた園内最古の建造物。名称の由来は論語の「仁を求めて、仁を得たり」より。

清水観音堂跡
元々は清水寺を模した建物がありましたが、関東大震災で倒壊し現存しません。

大堰川
京都の嵐山を流れる 大堰川を模した風景。

屏風岩
屏風のように屹立した岩が特徴。将軍・徳川家光もここで休憩しているとか。

大堰川
先ほどの写真とはまた別の場所から撮影。写真奥が、先ほど撮影した場所。

通天橋
大堰川の奥には、京都東山の東福寺の通天橋を模した橋が架かっています。

西湖の堤
中国の名勝である西湖を模して造られたもの。この後、他の大名庭園でも模倣されました。

西行堂跡
戦災により焼失し現存せず。藩祖である徳川頼房の時代に、西行法師の木造を安置したことから名づけられたもの。



市兵衛河岸
 オマケ。水道橋駅近くにあるこの場所。これは現在の飯田橋駅から水道橋駅にかけてあった市兵衛河岸(いちべえがし)という神田川の物揚げ場の名残で、この場所は1875(明治8)年から1933(昭和8)年まで、後楽園一帯にあった砲兵工廠の荷揚げ場として利用されました。現在でも防災船着場として利用されています。