移設問題で混迷を深める、沖縄県宜野湾市の米軍「普天間基地」こと、普天間飛行場。そして、その普天間飛行場を見下ろすことが出来る嘉数高台講演を今回はご紹介。普天間飛行場は、沖縄戦の最中である1945年に、アメリカ陸軍によって本土決戦に備えた滑走路を建設したことに始まります。1960(昭和35)年に海兵隊に所管が変えられ、この航空基地となり、1972(昭和47)年に沖縄が日本に返還されると、普天間飛行場として、国の提供施設となりました。
現在は宜野湾市のほぼ中央部に位置し、普天飛行場の面積は4.8ku。市域の24.6%を占めているのが特徴です。ちなみに、9割は民有地で、年間で約60億円の賃借料が支払われています(宜野湾市ホームページにて確認)。
さて、上写真の地球型の展望台から普天間飛行場を見下ろせることで、数々の政府要人も訪れている嘉数高台公園は、1984(昭和59)年に造成されたもので、北は残波岬、西は慶良間諸島も見えます。そして、この公園がある嘉数高地は、第2次世界大戦で日米が激しく戦い、米軍に大損害を与えた嘉数の戦いの戦跡であります。以下、公園にあった宜野湾市による解説より。
嘉数高地は、第2次世界大戦中に作戦名称第70高地と命名され、藤岡中将の率いる第62師団独立混成旅団、第13大隊原大佐の陣頭指揮で、約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成された精鋭部と、作戦上自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため16日間も一進一退の死闘が展開されたが、ついに日本軍は矢尽き刃折れ後退したが、しかし米軍にとっては「死の罠」「いまわしい丘」だと恐れられた程に両軍ともに多くの尊い人命を失った激戦地である。
現在でもトーチカの跡があり、4月18日から16日間に渡っての、激しい戦いの名残を見ることが出来ます。
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