富岡製糸場〜群馬県富岡市〜
富岡製糸場は伊藤博文、渋沢栄一などの明治政府の要人たちの発案により、日本の生糸の品質大幅向上と、旧士族の授産対策を目的として1872(明治5)年に建築された日本初の器械(機械)製糸工場で、現在も創業時の大半の建物が残っている、貴重な産業遺産です。
創業に当たっては、フランス人のポール・ブリュナを雇い入れ、工場の建設から生糸の生産まで、全面的に管理させました。しかし、フランス人技術者たちが赤ワインを飲む姿が「赤鬼が血を吸う」姿に見えたらしく、なかなか人が集まらなかったとか。結局、士族の娘達を徴発に近い形で雇い入れ、何とか操業に。ここで技術を得た娘達は、各地で工業の近代化に貢献したようです。
そして官営工場払い下げ令によって、1893(明治26)年に三井家へ払い下げられ、さらに1902(明治35)年には横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)へ譲渡。そして、1939(昭和14)年からは片倉工業の所有となって、1987(昭和62)年3月5日まで現役の工場として使われました。
そして2005(平成17)年に富岡市に寄贈され、翌年には1875(明治8)年以前に建てられた施設は国の重要文化財に指定。2014(平成26)年には群馬県内の関連施設と共に「富岡製糸場と絹産業遺産群」に指定されたほか、繰糸所、東置繭所、西置繭所が国宝に指定されています。
上写真は入口を入ってすぐ見える東繭倉庫(東置繭所)。1872(明治5)年の建築で、1階は事務所、作業所などに使用し、2階は乾燥させた繭を貯蔵しました。
(撮影・解説:裏辺金好)
○場所
○風景
全景
東繭倉庫(東置繭所)内部 【国宝】
1階は資料館や売店として活用されており、富岡製糸場の歴史などを見ることが出来ます。
東繭倉庫(東置繭所)内部 【国宝】
こちらは2階の様子。
検査人館 【国指定重要文化財】
1873(明治6)年築。元々は生糸や機械の検査を担当したフランス人男性技術者の住居です。後に事務所に転用され、2階には皇族や政府の役人が訪れた際に使用する貴賓室があります。
女工館 【国指定重要文化財】
1873(明治6)年築。器械による糸取り技術を教えるフランス人女性教師の住居です。
高圧変電所
1948(昭和23)年築。
繰糸場(繰糸所) 【国宝】
1872(明治5)年築。繭から生糸をとる作業を行う建物です。
繰糸場(繰糸所) 【国宝】
トラス構造を採用し、柱のない広い空間を形成しているのが特徴です。
繰糸場(繰糸所) 【国宝】
今も操業停止時に使っていた最後の器械(機械)が保存されています。これは昭和40年以降に導入したもの。
繰糸場(繰糸所) 【国宝】
こちらは富岡製糸場初期の再現(※展示パネルを撮影)
繰糸場(繰糸所) 【国宝】
ブリュナ館 【国指定重要文化財】
ポール・ブリュナが家族と暮らした住居。その後、工女に読み書きや和裁を教える教室に転用しました。
診療所
1940(昭和15)年に建てられた3代目のもの。官営時代から片倉時代まで、医療が充実していたことが伺えます。
病室
1940(昭和15)年築。診療所を中心に東側と南側に病室があり、渡り廊下でつながっていました。
榛名寮
1918(大正7)年築。その痕跡から、養蚕農家を移築改造したと考えられています。
寄宿舎
1940(昭和15)年築。創業当時から大きく数えて3代目となる工女寄宿舎で、長さ55m、幅7.3mの建物が2棟が並んでいます。北棟が浅間寮、南棟が妙義寮と呼ばれました。
西繭倉庫(西置繭所) 【国宝】
1872(明治5)年築。基本的に東繭倉庫と同仕様です。
蒸気釜所 【国指定重要文化財】
1872(明治5)年築。非公開で、外観も後年の改修の手がだいぶ入っているようです。
乾燥場
社宅76
大正時代中期ごろの建築。敷地の北東エリアに建つ長屋形式の社宅で、4戸から成ります。2019(平成31)年4月から公開を開始し、昭和の暮らしを伝える展示施設(暮らしのギャラリー=上写真)や各種体験施設として活用されています。
社宅群
西側の社宅のうち4棟は、1896(明治29)年頃築。三井時代(明治26〜35年)の建築で、戦後(片倉時代)は工場長、総務課長など役職者とその家族が居住していました。