筥崎宮〜福岡県福岡市東区〜
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)、石清水八幡宮(京都府八幡市)と共に日本三大八幡宮に数えられる由緒ある神社で、創建時期は諸説ありますが、921(延喜21)年に醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ)を下賜され(※1)、この地に壮麗な社殿を造営し、923(延長元)年に筑前国穂波郡の大分宮(だいぶぐう)を遷座したといわれています。(※1:朝鮮の新羅にいた海賊がこの地を荒らしていたことに由来し、以後の天皇も納めれられた記録があります)
元寇の際には亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、実際に蒙古軍に打ち勝ったことから厄除・勝運の神としても有名となり、足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など名だたる武将が参詣。関ヶ原の戦い後、福岡藩主となった黒田長政以下、福岡藩の歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。
現在も大内義隆が造営した本殿と拝殿、小早川隆景が造営した楼門、黒田長政が建立した一の鳥居が残り、いずれも国の重要文化財に指定されています。
【参考】
http://www.data-max.co.jp/area_and_culture/2014/09/17119/0922_dm1753/
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
参道
筥崎宮への長い参道が続きます
一ノ鳥居 【国指定重要文化財】 1609(慶長14)年築。黒田長政が建立したもので、笠木島木(かさぎしまぎ)は1つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じという異色の形状。このため、「筥崎鳥居」と呼ばれています。
楼門 【国指定重要文化財】 1594(文禄3)年、当時の筑前国を治めていた小早川隆景が建立。12坪の建坪に対して83坪余りの屋根という特徴的な姿です。また、亀山上皇によって奉納された御宸筆を模写拡大した「敵國降伏」の扁額は有名で、このために伏敵門とも呼ばれます。
なお、扉の桐紋彫刻は左甚五郎の作と云われているほか、楼門右手の朱の玉垣で囲まれた松は、「筥松」または「しるしの松」と呼ばれるもので、筥崎宮の名前の由来。応神天皇がお生まれになったときの御胞衣(えな)を箱に入れ、この地に納めたしるしとして植えられた松という伝承です。
本殿、拝殿 【国指定重要文化財】
戦国時代の戦乱で荒廃したものを、1546(天文15)年に戦国大名の大内義隆が再建。
蒙古軍碇石
博多港中央波止場付近から引き揚げられたもの。