偕楽園 〜茨城県水戸市〜
○解説
偕楽園は水戸藩第九代藩主徳川斉昭が1842(天保13)年に造園したもので、千波湖に臨む七面山を切り開いて誕生しました。金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ「日本三名園」の一つとして知られ、本園部分だけで100種3000本の梅が植えられているのが最大の特徴です。また、名称は中国古典である『孟子』にある「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもの。1892(明治25)年からは水戸市の管理、1920(大正9)年からは茨城県が管理。また、公園面積は周辺部へ拡大を続け、1999(平成11)年には隣接する千波湖を含む千波公園及び緑地帯とあわせて園の名称を「偕楽園公園」とし、面積300haになっています。
なお、梅の開花シーズンには臨時駅として偕楽園駅が開設。ホームの構造上、下り列車のみですが、日中時間帯の特急・普通列車が停車します。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
偕楽園表門(黒門)
偕楽園の正門に相当する門で、1945(昭和20)年8月の空襲でも被害を免れた創建当時のものです。なお、この表門から竹林、大杉森を経て好文亭へ行くコースが本来の楽しみ方だとか。それでは、その順番に写真を掲載していくとしましょう。
孟宗(もうそう)竹林
徳川斉昭が弓乃材料とするために京都男山の竹を移植したもの。
吐玉泉(とぎょくせん)
常陸太田市真弓山の大理石を使った湧水泉。
太郎杉
吐玉泉のそばにあり、樹齢約800年と云われます。
大杉森
好文亭中門
好文亭
徳川斉昭が自らが設計したもので、木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿から成ります。1945(昭和20)年の空襲で焼失し、1958(昭和33)年に復元されますが、1969(昭和44)年に奥御殿が落雷で焼失。1972(昭和47)年に再度復元されました。内部の写真については後ほど紹介するとして、そろそろ最大の見所である梅の写真を掲載しましょう。
南崖(なんがい)の洞窟
水戸黄門でお馴染み、第2代藩主の徳川光圀の治世から徳川斉昭の頃まで、「神崎岩(かみさきいわ)」と呼ばれた石を採掘した跡です。
○好文亭の風景
好文亭と待合
待合は茶室に招かれた客人が、茶の準備が出来るまで待っていた場所。壁には徳川斉昭の書(「巧詐不如拙誠」=こうさせっせいにしかず)が塗りこまれています。
菊の間
一部屋ごとに襖に描かれる植物の絵が異なり、好文亭を歩くだけで様々風景を楽しむことが出来ます。
桃の間
つつじの間
紅葉の間
松の間
竹の間
梅の間
萩の間
桜の間
東広縁(ひがしひろえん)
徳川斉昭が、80歳以上の家臣や90歳以上の庶民を招いて時折慰労した場所。
御座の間(藩主の間)
西広縁(ひがしひろえん)
配膳用昇降機
階下の調理室で作った御膳や酒肴を運ぶ、滑車式の昇降機です。写真2枚目は3階から1階を見た風景。
楽寿楼
3階の部屋で、名称は論語からとったもの。ちなみに2階は武者控室です。
3階からの風景。