佐渡金山〜新潟県佐渡市〜



○解説

 佐渡金山は1601年に鶴子銀山(つるしぎんざん)の山師3人によって開山されたと伝えられ、1603年以降は江戸幕府の直轄地(天領)として佐渡奉行所の下、金の採掘と小判の鋳造が行われ、幕府の財政を支えました。

 幕府崩壊後、1869(明治2)年には明治政府が管理する官営佐渡鉱山となります。お雇い外国人等による設備の近代化が進められ、1889(明治22)年には宮内庁御料局が管理する皇室財産に。

 さらに、1896(明治29)年には三菱合資会社に払い下げられ、1918(大正7)年に三菱鉱業株式会社(現・三菱マテリアル)が引き継ぎます。そして1962(昭和37)年からは三菱金属鉱業が宗太夫坑を観光坑道として公開を開始し、のちに100%子会社の株式会社ゴールデン佐渡が運営を行っています。

 一方、採掘部門は1973(昭和48)年から佐渡金山株式会社が担いますが、金の枯渇によって1989(平成元)年に採掘操業を中止し、鉱山としての役目を終えます。同社はゴールデン佐渡に吸収合併されています。


 現在は鶴子(つるし)銀山跡や佐渡奉行所を含めて、国の史跡「佐渡金銀山遺跡」に指定されているほか、旧佐渡鉱山採鉱施設 3基4棟1所が国の重要文化財に指定されています。

(撮影:リン/解説:裏辺金好)

○場所



○宗太夫坑(そうだゆうこう)

江戸初期に開発された手掘り坑道で、「佐渡金山絵巻」に描かれている採掘作業が再現されています。



水上輪(坑内水の汲み上げ作業)



風送り作業
酸素欠乏防止のため、坑内に新鮮な空気を送り込んでいます


採掘作業の様子


神事「やわらぎ」の様子

○道遊坑(どうゆうこう)

1899(明治32)年に開削されたもので、奥には1989(平成元)年の休山まで採掘されていた姿が残されています。


江戸時代には「次助坑」と呼ばれた坑道


煙穴
江戸時代に掘られたもので、灯火用の油による煙が充満するのを防ぐものです。

酒類醸成所
現在、煙穴の近くでは酒造が行われていました。










無宿人休息所
江戸時代の手掘跡で、江戸時代中期に、江戸や大阪から強制的に連れてこられた無宿人が休息した場所です。



高任立坑

高任坑入口
明治20年に佐渡鉱山局長である大島高任の命で開削された運搬坑道で、地下深くで採掘された鉱石は先ほどの立坑を利用して地上に運ばれ、この高任抗を経由して選鉱場、粗砕場へ運ばれました。

高任神社

道遊の割戸



佐渡鉱山機械工場





貯鉱舎 【国指定重要文化財】ベルトコンベアーヤード、中尾変電所など



粗砕場 【国指定重要文化財】
1937(昭和12)年頃築。採掘された鉱石を破砕機で細かく砕く(一次破砕)施設です。平成元年の休山まで使用されました。

上相川
今は林の中に眠っていますが、写真奥には佐渡金山で最初の鉱山町「上相川」の遺跡があります。1652年の記録では、町数22、家数512もあり「上相川千軒」と称されました。



上相川
今は林の中に眠っていますが、佐渡金山で最初の鉱山町「上相川」の遺跡があります。1652年の記録では、町数22、家数512もあり「上相川千軒」と称されました。

○北沢地区施設群

 北沢地区は明治期に入り、御料局佐渡支庁が置かれ、佐渡鉱山全体の一大拠点となった場所です。斜面地を利用して製錬所や選鉱場などが造られ、特に1937(昭和12)年以降は国策によって大増産体制が取られ、設備が大幅に増強されています。



北沢浮遊選鉱場(左)/火力発電所発電機室棟(右)※レンガの建物






旧北沢青化・浮遊選鉱場


50mシックナー
鉱物と水を分離するための施設です。

鋳造工場跡


御料局佐渡支庁跡
1889(明治22)年に佐渡鉱山が宮内庁御料局が管理する皇室財産になったことに伴い使われた建物で、洋風2階建、寄棟造桟瓦葺で屋根瓦には菊の御紋章が付いているのが特徴です。現在は相川郷土博物館の一部として、佐渡鉱山に関連する資料などを展示しています。

↑ PAGE TOP