飛鳥寺〜奈良県明日香村〜


 飛鳥寺は、596(推古4)年に蘇我馬子の発願により日本初の本格的な伽藍を備えた仏教寺院として完成したもの。当初は蘇我氏の氏寺、「法興寺」と呼ばれました。また、日本書紀によると606年、元興寺縁起によると609年に鞍作鳥(止利仏師)が釈迦如来像を完成させ、これは飛鳥大仏として今に伝わります。
 平城京に遷都されると、元興寺(がんごうじ)として移転しますが、こちらも本元興寺として現在地に残留。鎌倉時代のはじめに火難に遭い、大仏にも大きな被害が出ています。
 現在は往時の伽藍は見る影もなく、境内は大幅に縮小していますが、飛鳥大仏は残存し、江戸時代に建立された本堂の中に安置されています。
 従来、飛鳥大仏における鋳造当初の部材は面部と右手の一部などのごく僅かと考えられてきましたが、2012(平成24)年に発表された早稲田大学文学学術院の大橋一章教授によるX線分析結果では、面部及び右手とそれ以外の補修されたと考えられている部分の元素組成に顕著な違いは認められないとか。つまり大半の部分は創建当初のまま。
 一方、2016(平成28)年には大阪大の藤岡穣教授(東洋美術史)らが、X線装置で全身126カ所の金属の成分比を調べ、表面状態を観察した結果、右手と顔の部分が鋳造当初のままであると発表。今後、さらなる研究の進展が待たれます。
 (撮影&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


飛鳥寺復元図
かつては南北290m、東西200〜250mの規模で、塔を中心に金堂や講堂が置かれていました。




飛鳥大仏 【国指定重要文化財】
文化財の指定名称としては、「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」。少なくとも頭部は創建当時のようですね。その他の部分も若干の補修はあるにせよ飛鳥時代のままなのでしょうか。


阿弥陀如来
木造で、平安時代(遣唐使廃止後の藤原時代)の作品

聖徳太子孝養像
木造で、室町時代の作品

本堂
江戸時代の建立


蘇我入鹿の首塚

飛鳥寺西門跡
間口11.5m、奥行き5.5mという規模で、四方にあった門の中で最も大きかった西門。大化の改新の際には、中大兄皇子と中臣鎌足は飛鳥寺に陣を置き、この西門から蘇我蝦夷・入鹿の館をにらみ、広場は軍隊で埋め尽くされていたそうです。

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