島田宿大井川川越遺跡〜静岡県島田市〜
「箱根八里は馬でも越すが、越すにこされぬ大井川」
静岡県島田市にある島田宿大井川川越遺跡は、東海道の難所であった大井川の東側、現在の島田市博物館から東へ続く約300メートルに広がる国指定の史跡。
江戸時代、徳川家康が東海道に伝馬制度(てんませいど)を設け街道の整備をした際、大井川と安倍川は防衛政策の一環から架橋や通船を禁じ、徒歩での通行としました。このため、通行人は料金を払って人足に肩車をして渡るか、輦台(れんだい)という神輿のようなものに乗って担がれ、川越ししました。
当初は料金は話し合いで決めていたそうですが、渡渉の方法や料金などを統一すべく、1696(元禄9)年に川越制度が出来ました。なお、川越人足の数は、はじめ大井川両岸の島田、金谷にそれぞれ360人と定められていましたが、幕末には、約650人に増加しています。
1870(明治3)年に大井川の通船が許可されたことに伴い、川越しは廃止。この川越遺跡では、川越しの料金所(川会所)や、人足の待合所(番宿)などの一部が再現されています。
(撮影:裏辺金好)
○場所
○風景
川会所
1856(安政3)年築。旅人はここで、川越のための切符(川札や台札)を購入し、立会人や陸取り(おかとり)の案内で大井川の渡し場である越場(こしば)へ向かいました。
なお、川会所の建物は川越制度の廃止後、位置を転々としながら大井川通船の事務所や学校の校舎などとして、移築利用されてきました。1970(昭和45)年に現在地に移築されましたが、本来の場所より西側にあります。
年行事(左)・川庄屋(右)
川庄屋は川会所の中心的な役割を担い、交代で毎日出勤。川越賃銭、川留め・川明けを決めました。年行事は川庄屋の経験者から選ばれ、川越賃銭の徴収、帳簿の記載、川越人足の配置などの業務を行いました。また、川庄屋が川越賃銭、川留め・川明けを決める際の相談役となりました。
輦台(れんだい)
肩車よりは乗り心地がよさそうですが、これでも大変そうです。
札場
川越人足が川札を換金するところ。
仲間の宿
主に年取った人足たちが集まった場所。
二番宿
現在も居住しているとのこと。昔からある建物なのでしょうか。ちなみに、この左側が本来、川会所があった場所。
荷縄屋
荷崩れした荷物を直したり、馬に荷物を括りつけるときに使用する縄や、わらじ、笠などを売っていた場所。
三番宿
十番宿
六番宿
海野光弘版画記念館
大井川橋 【土木遺産】
1928(昭和3)年築。橋長1026.4m、17径間のトラス橋です。明治になってから、大井川を渡る東海道には木製の橋が架橋されましたが、何度か洪水によって橋柱が破損や流出し、そのたびに再建されました。今に残るこの橋は、初の鉄橋として完成したものです。