千住宿とその周辺〜東京都足立区〜


 北千住駅近くにあった千住宿は、日光街道(日光道中)及び奥州街道(奥州道中)の日本橋から数えて1番目の宿場町。水戸街道・佐倉街道・成田街道なども分岐しています。
 東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれ、江戸への入り口として大いに栄えたます。また、荒川・隅田川などの水運を利用し、千住青物市場(やっちゃ場)が置かれたほか、材木などの物資の中継拠点としても活用されました。
 ちなみに、荒川区なので別ページで紹介していますが現在の南千住駅近くには大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と言われた小塚原刑場が設置されています。今回は都内でありながら江戸から昭和初期の面影が多数残る、千住の町並みを散策しましょう。
(撮影・解説:裏辺金好)

○地図



○風景



大橋眼科医院
 北千住駅前の眼科。1982(昭和57)年の建築であり新しいものですが、非常に立派な洋館。元々、1917(大正6)年に建てられた大橋重義氏によるドイツの民家風の医院があったのですが、老朽化により取り壊すことに。しかし、惜しむ声も多く、医院の経営者である鈴木英夫氏の意向で旧建物をイメージして改築したとか。前建物とはかなり似ており、さらに都内の近代建築から部材を集めたそうで、数々の歴史を継承していることになります。これからも残って欲しいものです。


千住宿本陣跡
 現在も多くの店舗でにぎわう、かつての千住宿。写真左手の建物から奥にかけて、かつての千住宿本陣がありました。千住宿では本陣はここ一軒だけ。


横山家住宅

 江戸時代後期の建物(昭和11年改修)。宿場町の名残をとどめる商家です。敗退する彰義隊が柱に斬りつけた跡や、戦時中に焼夷弾に貫かれた屋根など、様々なドラマがあります。



千住絵馬屋・吉田屋
 代々絵馬を作り続けている吉田屋。縁取りした経木に色とりどりの泥絵具で描く千住絵馬の伝統を守り続け、またその代表作を一括保存しています。


名倉医院
 名倉家は寛文〜元禄の頃に千住に移り住み、1770(明和7)年頃から接骨業をはじめ、200年前から続く名医。「ほねつぎ」と言えば名倉という代名詞になったほど、全国から患者が来たとか。その当時の建物が今も残っています。




安養院
江戸時代からの石仏が残っています。


特に文化財指定されていませんが、こんな家も。


大黒湯
日光街道の直ぐ脇、千住寿町に行くと、大黒湯という、ビックリするほど立派な銭湯がございます。なんと、1929(昭和4)年の建築です。


旧・千住郵便局電話事務室
1929(昭和4)年築で、場所は千住中居町15-1。こちらも日光街道沿いで、ちょっとだけ脇に入ります。残念ながら、2002(平成14)年に閉鎖されたらしく、今後が気がかりです。角が丸みを帯びているなど、何とも捨てがたい魅力がありますが、さてさて今後や如何に!?

千住大橋
1927(昭和2)年築(※写真の下り側鉄橋)で、ブレースドリブ・タイドアーチ型の鉄橋。
足立区と荒川区をまたがる千住大橋は1594(文禄3)年、徳川家康が江戸に入って初めて隅田川に架橋したものです。余談ですが、元々は足立区側に設けられた千住宿は、多くの人でにぎわったことから千住大橋を越えて荒川区側の小塚原町・中村町まで宿場町が拡大し、千住下宿と呼ばれます、さらに、明治時代に千住宿南組と呼ばれたことが、現在の南千住の地名の由来となっています。

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