渋沢栄一生家「中の家」〜埼玉県深谷市〜
渋沢栄一生家「中の家」(なかんち)は、深谷市血洗島にある近代日本を代表する実業家、渋沢栄一(しぶさわ えいいち 1840〜1931年)の生家。 「中の家」とは、渋沢一族の分家の1つの通称で、各渋沢家の家の位置に由来します。
さて、元々は藍玉の製造販売と養蚕などを手掛ける豪農の生まれであった渋沢栄一は、一橋家家臣・平岡円四郎の推挙で一橋慶喜(のち徳川慶喜)に仕え、慶喜の異母弟・徳川昭武の随行として1867年のパリ万博などを視察。明治維新後は大蔵省に出仕し、度量衡の制定や国立銀行条例制定に尽力した後、1873(明治6)年に退官。
これ以後、「論語」の精神を重んじた「道徳経済合一説」を基本に、第一国立銀行(現在の「みずほ銀行」の源流の1つ)や王子製紙、帝国ホテル、東京株式取引所(現・東京証券取引所)など、現在でも日本を代表する実に膨大な数の企業の設立にかかわったり、顧問として助言をしています。しかも、常に利益第一ではなく、社会を良くすることに重点を置いていました。
現在の主屋は渋沢栄一の妹夫妻である渋沢市郎・てい夫妻によって1895(明治28)年に上棟された建物。栄一は多忙の中で年に数回はここへ訪問したそうです。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○屋外展示
主屋
屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓がある、典型的な養蚕農家の構造です。
主屋
渋沢栄一が寝泊りしたという部屋
鹿島神社
近くにある鹿島神社。拝殿は1881(明治14)年の建築です。神社の創立は不詳ですが、平将門を討伐するときに、源経基の家臣である竹幌太郎が陣を置いて、祀ったとか。
尾高藍香(おだからんこう)生家
尾高藍香は、本名を尾高惇忠(あつただ)といい渋沢栄一の従兄弟。栄一は彼に論語などを習い、その後の人格形成に大きな影響を受けたようです。