達谷窟毘沙門堂/達谷西光寺〜岩手県平泉町〜


 達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや びしゃもんどう)は、801(延暦20)年に征夷大将軍の坂上田村麻呂が、この地域の蝦夷を討伐したことを記念し建てたとされる毘沙門天をまつった堂。岸壁下方の岩屋に、清水寺を模した懸造の建物とし、見る者を圧倒しています。
 802(延暦21)年に別当寺として達谷西光寺が創建され、東西約30里、南北約20里の広大な寺領が定められました。その後、源頼義・源義家親子が後三年の役の折に戦勝祈願し、寺領を寄進したほか、奥州藤原氏初代の藤原清衡、第2代の藤原基衡が七堂伽藍を整備。
 さらに、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした際には、その帰路に参詣したことも記録されています。
 戦国時代になると戦乱によって悉く灰燼に帰しますが、1615(慶長20)年に仙台藩主の伊達政宗が再建。しかし、1946(昭和21)年に隣家からの出火により毘沙門堂が焼失。現在見られるものは1961(昭和36)年に再建されたものです。
(撮影・解説:裏辺金好)

○地図



○風景






達谷窟毘沙門堂


達谷窟毘沙門堂


達谷窟毘沙門堂




鐘楼堂
1615(慶長20)年築


姫待不動堂
元々は智証大師が達谷西光寺の飛地境内に建てたもので、後に奥州藤原氏第2代の藤原基衡が再建。その後、老朽化によって1789(寛政元)年にここへ移されました。


金堂
1995(平成7)年築。廃仏毀釈で失われていたものを再建したものです。


御供所(旧・千葉家住宅)
17世紀末の建築と推定。御供所(ごくしょ)は様々な行事や参詣する信者の宿としても使われる建物で、1968(昭和33)年に取り壊されましたが、1995(平成7)年に現建物を譲り受けて移築。


御供所(旧・千葉家住宅)


御供所(旧・千葉家住宅)

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