清水港船宿記念館「末廣」/清水次郎長生家〜静岡県静岡市清水区〜


 幕末には任侠の親分として活躍し、明治維新後は富士裾野の開墾やお茶輸出による清水港の発展に尽力した清水次郎長(本名、山本 長五郎/1820〜93年)。静岡市清水区は清水次郎長ゆかりの地で、生家が残されているほか、晩年に経営した船宿「末廣」(上写真)が2001(平成13)年に古材を用いて復元されています。
(撮影:裏辺金好)

〇地図



○船宿「末廣」


1868(明治元)年9月11日、旧幕府の軍艦「咸臨丸」が修理の際に清水港に停泊したところ、新政府軍に襲撃されて幕府軍全員が死亡。新政府を恐れて遺体が放置される中で清水次郎長はこれを埋葬します。これを知った旧幕臣の山岡鉄舟は次郎長の義侠心に深く感じ入り、終生交流するように。この出会いを機に次郎長は社会事業家として活躍するようになりました。


この建物は「末廣」の建物を1938(昭和13)年に移築した藤下邸が2009(平成11)年に解体されることになったことから、再移築したもの。季節ごとに様々な展示も行われています。


次郎長の英語塾
1874(明治7)年に旧幕臣の新井幹が開いた明徳館(後の清水小学校)の一角に清水次郎長が開いた英語塾の雰囲気が2階で再現されています。

○清水次郎長生家


清水次郎長生家(旧高木家住宅) 【国登録有形文化財】
江戸末期築。商家である高木三右衛門の次男として生まれた清水次郎長(山本長五郎)。8歳の時に母方の叔父で、直ぐ近くで米問屋を営んでいた山本次郎八の養子となり、次郎八のところの長五郎ということで「次郎長」と呼ばれました。


正面右に1間幅の土間を通しています。




船宿末廣と次郎長生家の間位にも立派な建物が残っていました。

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