大久野島〜広島県竹原市〜


 大久野島は、竹原市の忠海港から船で約15分の場所に位置する瀬戸内海の無人島。周囲約4kmの広さで、1963(昭和38)年に国民休暇村(現在の休暇村大久野島)として開発され、約900羽のウサギが棲息することから2010年代に入り人気が急上昇。海外からも多くの人が訪れます。
 すっかりインスタ映えスポットとなった大久野島ですが、1929(昭和4)年〜1945(昭和20)年までは日本軍の化学兵器製造拠点として毒ガスを製造。国家機密として地図上から消されたことも。現在でも発電所、毒ガス貯蔵庫、砲台跡などが残るほか、毒ガス資料館で島の負の歴史についても紹介しています。
 このページでは、戦争遺跡について紹介した後、ウサギたちの写真を掲載していきたいと思います。
(撮影:リン)

〇地図



○風景


全景
高い鉄塔が目立つ大久野島。


芸予要塞時代の桟橋
1902(明治35)年に完成した芸予要塞の桟橋。芸予要塞は1924(大正13)年に廃止され、1929(昭和4)年に毒ガス施設が置かれた当初にもこの桟橋が利用されましたが、本土から見えやすかったため、間もなく新たに整備された表桟橋や長浦桟橋がメインとなり、こちらは資材の陸揚げに用いられました。





発電所跡
毒ガスを製造するための電力を供給していた発電所で、ディーゼル発電機8基が設置されていました。朝鮮戦争時には米軍の弾薬庫として使用され、上写真に見えるとおり弾倉を指す略語「MAG2」(MAGAZINE 2)の文字が残ります。





火薬庫跡
芸予要塞時代に22基の砲台が設置されており、その弾薬や火薬を保管していました。毒ガス工場時代には化学薬品の保管庫となり、朝鮮戦争時代には米軍が弾薬庫として使用し、弾倉を指す略語「MAG1」(MAGAZINE 1)の文字が残ります。



北部砲台跡
芸予要塞時代に北部、中部、南部の3か所に設置された砲台。ここには12cm速射カノン砲が4門設置されていました。

北部砲台跡 毒ガスタンク台座





長浦毒ガス貯蔵庫跡
主に、びらん性ガスであるイペリットとルイサイトを製造していた大久野島。ここは毒ガスが約100t入るタンクが6基置かれていた貯蔵庫の跡で、当時は建物の前に3m〜4mの小山を築き、コンクリートを迷彩色で塗ることで海上から見えないようにしていました。









中部砲台跡
28cm砲6門が置かれていました。



大久野島毒ガス資料館
1988(昭和63)年開館。館内には工員手帳や作業服、液体毒ガス製造装置などが展示されています。

研究所跡

大久野神社
かなり崩壊していますが、かろうじて神社らしい雰囲気を保っています。

大久野島灯台
初代は1894(明治27)年点灯。三原瀬戸航路の要所を照らすために建てられ、当時のものは四国村へ移築。現在の灯台は1992(平成4)年に竣工したものです。

○島内のウサギ













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