三池炭鉱三川坑と三井港倶楽部〜福岡県大牟田市〜


 福岡県大牟田市・みやま市及び熊本県荒尾市に広がる三池炭鉱。
 三川抗は、1940(昭和15)年に採炭が始まったもので、2050mの2本の斜坑を持ち、深度350mを基準坑底としてベルトコンベアによる連続出炭が行われた。1944(昭和19)年には三池炭鉱では終戦前最大の出炭量403万トンを記録しました。
 戦後は1949(昭和24)年に昭和天皇が全国の炭坑の中で唯一、三川坑に入坑される一方、労働争議の激化により1960(昭和35)年には三川抗などで三井三池争議が発生。労使の対立が続く中、1963(昭和38)年に三川抗の第一斜坑で炭塵による粉塵爆発事故が発生し、死者458人、一酸化炭素中毒患者839人という、戦後最大の労働災害が発生しました。
 その後は石炭需要の減少や海外産の石炭との価格競争に伴い、1997(平成9)年に閉抗しました。比較的近年まで操業していたため諸施設が残り、特に繰込場が見られるのは三池炭鉱ではここだけです。一方で、木造施設を中心に屋根や壁が崩壊するなど劣化が進んでおり、今後は部材を活用した再建などを行っていく方向です。また、2016(平成28)年には三池炭鉱専用鉄道電気機関車が4両移設され、公開されています。
 このページでは隣接する三井港倶楽部、付近の三池港にある旧長崎税関三池税関支署も併せてご紹介します。
 (撮影:裏辺金好、リン)

○地図



○風景


繰込場
入坑前に作業の確認などを行う場所。入坑前に鉱員たちが待機し、職員から指示を受けた後に斜坑口へ向かいました。


繰込場前の渡り廊下



入昇坑口
入坑前に作業の確認などを行う場所。入坑前に鉱員たちが待機し、職員から指示を受けた後に斜坑口へ向かいました。


大斜抗



大斜抗
この先はコンクリートで塞がれていますが、全長2kmの第二斜坑が続いていました。



日本庭園
背後の建物は機械調査室棟。



人車点検場
トロッコが残されていますが、かなり劣化しています。



職員脱衣場・風呂場
当時は職員浴場と鉱員浴場に分かれていましたが、現存するのは職員用のみ。楕円形の浴場が残されています。なお、鉱員浴場は正門を入って西側にありました。


コンプレッサー室
削岩機など圧縮空気を動力源とするコンプレッサーが置かれていました。



コンプレッサー室
ボランティアガイドの方に見せていただきました。屋根は崩壊していますが、機械はブルーシートに覆われて保護されています。今後の整備公開が待たれます。ちなみにこちらの機械は石川島播磨重工業製。このほか、第一巻揚機室と第二巻揚機室も残ります。


保存されている旧三池炭鉱専用鉄道電気機関車


15トン級B形5号電気機関車
1908(明治41)年、アメリカのゼネラル・エレクトリック社製。国内に現存する最古級の電気機関車です。


20トン級B形1号電気機関車
1911(明治44)年、ドイツのシーメンス社製。


20トン級B形5号電気機関車
1915(大正4)年、三菱造船製。先ほどのシーメンス社製凸型機関車をモデルにしたもので、国産では最古級の電気機関車。同型機は2020(令和2)年まで三井化学専用線で活躍を続けていました。


45トン級B-B形17号電気機関車
1936(昭和11)年、東芝製。石炭の産出量増大に伴い導入された大型の機関車で、同型機は2020(令和2)年まで三井化学専用線で活躍を続けていました。なお、同タイプの電気機関車は東芝が全国各地の鉄道会社に販売しています。



三井港倶楽部 【大牟田市指定有形文化財】【近代化産業遺産】
1908(明治41)年築。三池港の開港にあわせて誕生したもので、三井財閥の社交場、外国高級船員の宿泊接待所として活用。昭和天皇や伊藤博文、井上馨などが訪れ、大牟田の迎賓館として使われました。1987(昭和62)年からは結婚式場やレストランとして使用されています。元々は三井鉱山が保有していましたが、現在は三井松島産業が保有しています。


旧長崎税関三池税関支署 【福岡県指定有形文化財】【世界遺産】
1908(明治41)年築。三池港の開港にあわせて誕生したもので、木造瓦葺き平屋建で窓は上下開閉式です。1965(昭和40)年に、現在の三池港湾合同庁舎に機能が移るまで税関として使用されていました。国内でも数少ない明治期の税関庁舎です。世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である三池港の一部です。


税関の隣には線路が残されています。

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